自由党と勝山孝三

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勝山は、『日本開富』の序文に「同年(明治一四年)十一月、思フ所ロアリ阪地ヲ去テ東京ニ出テ政治経済ノ学ヲ研ム、然(しか)ルニ明治十五年ニ及ンテ自由党ノ起ルニ会シタリシカハ、余又率先シテ入党セリ」と述べている。勝山は、明治一五年(一八八二)一〇月、甘南備(かんなび)村・富田林村の政談演説会で活躍しており、この回想は正確ではないが、一六年一一月一六日、東京浅草の井生(いお)村楼で開かれた自由党臨時大会には大阪からただ一人出席し(岩波文庫版『自由党史』中)、一七年六月五日に大阪横堀(現大阪市中央区)で開かれた関西有志大会にも参加している(同)。一七年五月の『自由党員名簿』に名を連ねているのは、大阪府では勝山と西区の西村定次郎だけで、勝山は郡部唯一の党員であったことになる(『自由党員名簿』)。一四年の帰郷後、地方名望家に仲間入りをして民権運動の中で急速に頭角を現した勝山は、一五年末か一六年初めに上京して自由党に加わり、積極的に関東・東北などの遊説に参加する。自由党員としての活躍を、『日本開富』の序文は次のように述べている。

写真57 『日本開富』 (国立国会図書館所蔵)

爾来関八州ヨリ奥羽・北陸・東海・東山ノ地方ヲ巡廻シ、以テ自由民権ノ論、国利・民福ノ策ヲ講シ、此間或ハ寒暑雨雪ノ苦ヲ受ケ峻阪<ママ>鹸(嶮)路ノ難ニ遇ヒ、或ハ反対者流ノ拒撃スル処トナリ(中略)、或ハ鉄窓ノ艱苦(かんく)ヲ嘗メ、親族ニ疎セラレ郷人ニ嫌ハレ、俗人ノ軽侮ヲ受クル等、殆ント忍フヘカラサルノ困難ヲ極メタリ、然レトモ予ハ之ヲ以テ意トセス弥々前途ノ方針ヲ考ヘツヽ世俗ニ阿(おもね)ラス勇進シ(後略)

 一六年八月七日、勝山は、新潟県新発田(しばた)で開かれた演説会に、「当時北海漫遊中なる勝山孝三氏」として登壇し(『自由新聞』明治16・8・7)、一六日、新潟県北蒲原(かんばら)郡水原町(すいばらまち)で開かれた「菱権(りようけん)退治偽党撲滅」の演説会でも登壇している(同8・22)。一一月二五日、東京日本橋で開かれた自由政談演説会では星亨・植木枝盛・加藤平四郎などと共に演説している(同11・25)一二月三日、長野県岩村田町(現佐久市)西念寺で行われた演説会で、勝山は官吏侮辱罪を問われ、禁錮一か月一五日、罰金五円を科せられた(『長野県史』七)。出獄当日、地元では有志が慰問会を開き、その後も近隣各地で懇親会・談話会が開かれ、いずれも盛会であったという(『自由新聞』明治17・2・20)。その後も、一七年三月一六日、下谷竹(したやたけ)町(現東京都台東区)の竹栄館の自由政談演説会に星亨・植木枝盛・奥宮健之・杉田定一・加藤平四郎らと共に出席し、二四日には八王子大谷座の演説会に出席しているが(『自由新聞』明治17・3・15、23)、三月二三日の自由新聞に「自分義帰国ニ依テ暫時辱知諸君ノ通信ヲ謝絶ス」という広告を掲載して東京を離れた。しかし、すぐには大阪に帰らず、四月には山梨・長野などを漫遊していたようである(同4・30)。