『日本開富』の序文では、勝山は、明治一六年(一八八三)に関西に帰り自由党の拡張に尽力したが、やがて土佐派の支配に反発して脱党し、山陽・山陰を遊説して九州に渡り、佐賀・熊本・鹿児島の人士と交わったと述べている。一六年は、一七年の記憶違いであると思われるが、一八年一月六日、益田警察署から益田(現島根県益田市)の脇村角太郎方の本人にあてた召喚状が残されており(南大伴勝山家文書)、山陰を遊説していたようである。まもなく九州に渡ったとみえて、勝山家に次のような書簡が遺されている(同)。
(前略)頃日、河内人勝山孝三ナル者、予(かね)テ其地漫遊ノ志望アリ、当春来佐賀ノ新聞記者ト為リタルモ素志止ミ難ク、屡々(しばしば)書ヲ飛シテ僕ニ添書ヲ促セリ、依テ又々愚書ヲ進呈致候間、同人参堂ノ砌(みぎり)ハ御面晤(めんご)被下度、同人ハ我北海道ニモ暫(しばら)ク教員ヲ務メ、尓後内地ヲ概(おおむ)ネ遊歴セシ人ナレトモ、海外ノ事ハ亦格別ノ義ト存候ニ付、何卒御心添ノ程偏(ひとえ)ニ奉願候、(中略)内地ハ総テ平穏、本年ハ気候頗(すこぶ)ル不順ニテ田畑ノ水害ヲ蒙リタルハ全国一般ノ様ニ見請申候、先ハ右添書旁(かたがた)起居御伺候、已上
十八年 匆々不尽
七月七日認メ 永田一二
波多野承五郎様
勝山は、九州の人士と交わるだけでなく、一八年春には、佐賀で新聞記者になっていたようであるが、このころから急速に国権論に傾いていったものと思われる。熊本では、佐々友房らが同心学舎に集まる熊本藩士の子弟や敬神党の系譜を糾合して結成した紫溟(しめい)会が、国権論を唱えて民権派に対抗してきたが、一七年三月には紫溟学会として再出発した。その設立趣意書・綱領・規則が勝山家に保存されている。
右に挙げた書簡は、永田一二が波多野承五郎に勝山を紹介したものである。永田は、大分県士族で愛国社再興に参加し、一五年の「立憲政党名簿」に名を連ねているが、後に国権色の濃い国民自由党に参加している。この書簡には「他邦御在勤ノ事ナレバ殊ニ為国家御自愛アランコトヲ希望ス」という追って書が付せられていて、波多野が国外にいることをうかがわせる。また、書簡は、「予テ其地漫遊ノ志望アリ」「内地ヲ概ネ遊歴セシ人ナレトモ、海外ノ事ハ亦格別ノ義ト存候」と述べており、勝山が海外=中国への紹介状を永田に依頼したようである。その結果、勝山は、一八年秋から一九年六月まで清国を訪れ、同年『商工必読 支那貿易道しるべ』(国立国会図書館所蔵)を刊行し、二一年八・九両月、貿易調査のために再度中国を訪れ、二二年一二月には『貿易起業 日清関係』(同)を大阪で刊行している。その後、北海道の物資を清国に輸出することを意図して、二三年六月、北海道各地を巡視して開発促進の必要を痛感し、意見書をまとめて各省大臣・貴衆両院議員・府県庁・北海道庁・政党員・新聞社・有志に贈り、二四年二月に『日本開富』として刊行した。二四年三月、勝山は、『殖民政略 日本回天』(同)を著し、富国のための北海道殖民策を主張するにあたって、次のように、地方的局部の運動に偏する政党を批判し、国家主義の必要を説いた。
惟(おも)フニ維新前ノ尚武ノ風儀去リテ文狂<ママ>国ト化シ、再変シテ法律国トナリ、三変シテ政党国トナリ、遂ニ其余波ハ延ヒテ情海国トナリテ、地方的局部ノ運動ニ僻シ、日本国ト云フ国家主義ハ何処ニカ消失シテ其壮痕ヲ見ズママ>
もっとも、勝山が国権論を唱えたからといって、ただちに民権論や自由党と対立したとは考えられない。二〇年七月、板垣は有限責任亜細亜貿易商会を設立し、「亜細亜貿易趣意書」を頒布して北海道水産物の清国輸出など亜細亜貿易を提唱しているが、その趣旨は国権論の色彩が強かった(岩波文庫版『自由党史』中)。また勝山は、二四年二月一〇日、衆議院に(北海道殖民政策断行ノ請願」(国立国会図書館所蔵衆議院「請願文書表」)を提出しているが、紹介議員は植木枝盛であった。