石上露子(いそのかみつゆこ)は本名を杉山タカといい、明治一五年(一八八二)六月一一日に杉山団郎・ナミ夫妻の長女として生まれた。杉山家は、富田林開発の差配をした年寄役八人衆の系譜を引くといわれる旧家で(『市史』二 中世編第五章第二節一、近世編第三章第一節参照)、明治八年二月、大久保利通・税所篤(さいしょあつし)・五代友厚らが金剛山行楽の往復に立ち寄り休息している(第一章第四節参照)。近世以来酒造業を営む大地主で(『市史』二 近世編第三章第二節参照)、露子の自伝「落葉のくに」(松村緑『石上露子集』)に次のような一節がある。
富田林のさか屋の井戸は 底に黄金の水が湧く。
一に杉山二にさどや三に黒さぶ金が鳴る。
人にかたるべきでもないが、かうした子守うたの流れたのはいつの代のことか。佐渡やは仲村、くろ三ぶは田守、このさどや、ことにこの頃はなやかな生活
一三年、造石税が二倍に引き上げられたのに続き、一四年七月に施行された地方税営業税雑種税漁業税規則第一四条・第一五条によって営業所税が課せられると、これに反対する酒造業者の全国大会を大阪で開く計画が立てられた。河内一二郡でも酒造業者が集まり、代表を選出して、一五年四月、大阪府知事に請願書を提出しており、総代に杉山団郎が名を連ねている(第一章第四節参照)。しかし杉山家の酒造業は、このころには衰運を辿っていたようで、やがて廃業して専ら地主経営に力を注ぐようになる。明治三三年の「土地台帳総計簿」(京都大学総合博物館所蔵杉本家文書)によれば、杉山家の所有地は六一町五畝一九歩、地価三万二二五九円八二銭一厘で、そのうち田地は五七町二反六畝二一歩、地価三万八九五円五八銭を占めていた。明治三一年郡制施行に際して郡会の大地主議員の資格を有する地価一万円以上所有者は、南河内郡で三一人であったから、杉山家は郡内屈指の大地主であり、所有地は近隣十数か村に及んでいた。
近世以来、富田林は南河内の文化の中心でもあったが、杉山家は、文化面でも活躍し、特に能狂言では指導的役割を果たした(『市史』二 近世編第五章第一節参照)。団郎も謡曲には熱心で、杉本藤平の日記「日新誌」(富田林杉本家文書)にも、しばしば登場する。和歌や俳句の教養も高く、「落葉のくに」には、「おぢい様や日下(くさか)のお顔をしらぬおぢい様方は和歌のおたしなみ、杉山家には俳人の血がひそんでるのか、宝暦ごろの分庵様についでお父様は幼いころから俳句に関心がある。少年可甫としるされた巻なども残ってゐる」と記されている。母ナミは、元治元年(一八六四)一月二六日生まれ、一三歳で河澄(かわずみ)家から嫁してきたが、露子の同世代の叔母に『日本外史』の素読をさせるなど漢籍の教養もあった(「落葉のくに」)。
河澄家は、河内郡日下村(現東大阪市)の旧家で、作兵衛を襲名していた。書院は、領主であった大坂西町奉行曽我丹波守古祐(そがたんばのかみひさすけ)が造らせたと伝えられ、慈雲尊者(じうそんじゃ)が「棲鶴楼」と名づけ、大書した扁額が遺されている。曽我丹波守は、万治元年(一六五八)、職を辞して日下村に隠居するが、間もなく没して丹波神社に祀られた。曽我丹波守が没したのは、河澄邸であったという。妻に死別した上田秋成は、寛政一〇年(一七九八)五月から九月にかけて日下村正法寺に隠棲し、曽我丹波守の風流を偲び、近隣の文人たちと交わったが、その一人が一五代作兵衛常之であった。秋成の日下滞在記とも言うべき「山霧記」には、「河澄の家を棲鶴楼と書いつけて、あるやんごとなき御かたの御筆こひてあたへつる」と記され、正親町(おおぎまち)三条公則(きみのり)の書が遺されている。常之の歌は「山霧記」にも収められており、文政二年(一八一九)、河内郡喜里川村(現東大阪市)の国学者中西多豆廼舎(なかにしたずのや)(重孝)が編纂した歌集「河内集」にも一〇首が採録されている。河澄家には、ほかにも桃園・桃水と号する歌人もいたようで、文学的教養に恵まれた家系であった。
ナミの父、河澄雄治郎は作兵衛常之の孫で、幼名雄次郎、一九代作兵衛を嗣ぎ常房と号し、維新後雄治郎と改めたが(「河澄家先祖歴代法名記」『枚岡市史』四)、雄次郎と呼ばれることも多かった。天誅組に加担して大和十津川(とつかわ)に出奔、事敗れて潜伏し、維新後帰郷して家督を嗣ぎ、郷学校を創設したり、学区取締・学務委員として教育に功績を残しており、孔舎衙(くさか)小学校(東大阪市)に顕彰碑が建てられている。明治一四年に病没するが、晩年一〇年余の歌文が「閑居草紙」として遺されている。
「落葉のくに」に次のような一節がある。
三四日とまりこみのお茶の宗匠を送り出したあと、かこひでのこり火をかこんで、母とわかいをばがとりとめもない品定め。をばはのぶ子、梅花から戻つてゐる。源氏の女性達の中で弘徽殿(こきでん)の女御は南の姉上、ねたみ心のふかさまでがと笑ひ合ふ。むらさきの上は其まゝお清さんと云ふをばに私はと問ふ。あなたは明石の上、気ぐらゐの高さもなど。 (「源氏ものがたり」)
回想記の潤色はあるにせよ、一〇歳前後の女児を交えた日常会話である。このような雰囲気の中で露子は、杉山家の後継ぎとして育ったのである。