露子には、明治一八年(一八八五)一〇月二八日生まれ、三歳年下の妹セイがいた。二〇年、団郎が病に倒れ、治療のため親子四人は大阪市内で仮住まいすることになった。八軒屋・釣鐘町、内北浜、魚の棚(うおのたな)(いずれも現大阪市中央区)と転居したが、「一二ヶ月との出養生が私たちのためもか、とうとう四年を経ました」(「落葉のくに」)ということになり、「つぎつぎに家とともに私の学校も移つてゆく。内北浜からはずつと愛日小学校、ふかく脳裏にのこる」(同)と通学した愛日尋常小学校(廃校、現大阪都市協会)のことが心に残った。大阪での生活が終わり富田林に戻ることになっても、姉妹は富田林の小学校には馴染めなかったようで、「あゝいやだいやだ、かへりたいもとの学校へ」「一年生の妹は泣く。わたしも泣きたい」(「落葉のくに」)という情況だった。愛日小学校の先生も、女学校まで大阪にとどまるように親に勧めたようである。
露子の父団郎は、安政四年(一八五七)一一月二八日、杉山長一郎の長男として生まれた。長一郎は、日下村河澄家の出自であるが、杉山家の嫡女であったツヤが団郎を遺して没すると再婚して、ノブ・キサ・チカの三女をもうけた。露子姉妹にとっては叔母に当たるが、ノブは明治八年一〇月二六日生まれ、キサは一四年一一月九日生まれ、チカは一七年八月七日生まれで、年の差はなかった。松村緑は、「父母と妹との大阪に於ける水入らずの生活は、さうした大家族からの逃避の意味もあつたのであろう。」(『石上露子集』解説)と述べているが、この四年間だけが、親子水入らずの平和な生活であったのである。
明治二七年、露子が数え年一三歳の初夏、母ナミが離縁され、妹を伴って日下の実家に戻った。「落葉のくに」は、次のように述べている。
来る日が来た。近ごろの空気でたゞならぬものをひそかに感じてゐた私。どんな風にしてそのおくるまを見送つたか。たしか泣いてはゐなかつた。(中略)うつろになつた私の身辺。お母あさまなき後御一所に住むおぢい様方、実権はまゝ祖母の手にうつる。(中略)私は孤立、おぢい様にも、お父様にも近づく日が少ない。誰かがわたしを孤立にする。私のこころはねぢけてゆく。
やがて妹が祖父長一郎に伴われて戻ってくるが、母から引き離されて淋しそうな姿に、あきらめと悲しみを味わう。その年の秋、心労のためか、祖父が急死し、露子の孤独感はさらに深まることになる。
露子は歌を詠み、絵筆を取ったり上方舞の稽古に熱中したりしていたが、家庭教師を招き、キサと一緒に時間割を決めて本格的な勉学を開始し、父親と話す機会も増え、気持ちも落着きを取り戻して読書にも励んでいた。やがて継祖母のすすめで、その里方から大阪の女学校に通うことになり、「私をめぐつて何かが廻りつゝある」(「落葉のくに」)と感じながらも正式の学校に入れることを喜んだ。はじめは堂島の女学校(現大手前高校か)に入学したが、おおらかな平易な授業に飽きたらず、梅花女学校(現梅花高校)に移った。梅花女学校は大阪で初めてのミッションスクールで、当時西区土佐堀にあり、校長成瀬仁蔵の努力で四年制を五年制に改め、教育内容も充実しており、『明星』の歌人山川登美子もここを卒業している。しかし、露子は卒業することなく、再び郷里に呼び返される。裁縫と琴の稽古に堺へ行っていたキサも戻っていた。「何かが私の身辺にある。私をめぐる争闘はどちらが、誰れが勝利を得たのやら」(「落葉のくに」)と、相続をめぐる動きがあったようである。三〇年、父が再婚し、キサが他家に嫁いだ。露子は継母に馴染めず、チカに大学や中庸の素読をしながら、生母を偲んでいる。
翌年の五月、家庭教師として神山薫が招かれた。神山は、「いままでのどの先生にもないものを」持っており、開明的な団郎も満足したようである(「落葉のくに」)。それから数年、須磨や東京・東北などにも同行し、露子に大きな影響を及ぼすことになる。神山に伴われて東京に滞在中、露子は神山の縁者である長田正平と出会い、互いに心を引かれるようになる。正平は東京高等商業学校(現一橋大学)の学生であったが、夏休みと冬休みに富田林を訪れている。正平は長田家の嫡子であり、ともに旧家の相続人として、感情を表白することなく終わり、やがて正平は海外に職を得て去り、生涯結婚もせず、帰国することもなかった。
石川の川原にさゞれをふんでちどりの声にほゝ笑んだあの夜は、もちづきのまどかなかげのもと。相ともに云ひえねば、かたりえねば、其まゝに、まつよひぐさのほのかなおもひをのみ胸にひめて。(中略)若うして百三十里のへだたりは、互に因習の家の子なればか、こゝろ弱きがためなればか、そゞろにもえゆかぬ明治の世代、はかない宿世をたゞ呪ふ。のち遂に遠き国への船出に際し、書きおくられたよしの音信も我手に入らず(「落葉のくに」)
数年後、正平から音信があり、変わらぬ思い知らされたようで(松村前掲解説)、露子は慕情を募らせ、生涯忘れ得ぬものとなり、しきりにその思いを歌に詠んでいる。四〇年一二月、露子は、心ならずも片山荘平を迎えて結婚するが、その直前、『明星』に一編の詩を投稿した。
小板橋
ゆきずりのわが小板橋
しらしらとひと枝のうばら
いづこより流れか寄りし。
君まつと踏みし夕に
いひしらず沁みて匂ひき。
今はとて思ひ痛みて
君が名も夢も捨てむと
なげきつつ夕わたれば、
あゝうばら、あともとどめず、
小板橋ひとりゆらめく。
翌年、露子は夫に文筆活動を禁止され、新詩社を退社するが、この詩は、長谷川時雨(しぐれ)・生田春月(しゅんげつ)の目にとまり、文学史上に名をとどめるきっかけとなった。