露子の父団郎は、「土地解放論や富の分配、主義者達のあげつらふそんな書物を喜んでおよみになるお父様」(「落葉のくに」)で、露子をミッションスクールに通わせたり、神山薫という進歩的な女性を家庭教師に付けたりした。神山が去ると、露子は家庭の煩わしさから逃れるために投稿を始める(「落葉のくに」)。
この師の君とのお別れ、耳原(みみはら)の宮のそのやかたへおかへりになる日が来て、はじめて気付くまゝしい母の存在、まゝ祖母を陽とすればこれは陰性と云ふにはゞからぬ。新詩社をしり婦女新聞に投稿をはじめたのもやるせないなぐさめの。
明治三四年(一九〇一)七月、『婦女新聞』第六四号に夕ちどりの名で「継母について」が掲載され、同年一一月には『婦人世界』に夢遊庵の名で小説「宵闇」を発表している。これ以後、露子は、『婦女新聞』『婦人世界』に多くの随筆・小説を発表する。『婦女新聞』は、三三年五月に創刊された女性向け週刊新聞で、女子教育・母性保護・婚姻制度など女性に関する問題を取り上げ、女性の地位の向上を図ろうとするものであった。『婦人世界』は、三四年に創立された浪華婦人会の月刊の機関紙である。浪華婦人会は、大阪の若い婦人たちによって組織された団体で、三七年、日露戦争出征軍人家族の母子のために幼児保育所を設けたり、学校で学べなかった少女のために家政塾を開設し、夜間、手芸・割烹などを教授するなど、広く社会に目を向け、積極的に活躍していた。露子も会員だったようで、四〇年三月、家政塾の資金集めのために中之島公会堂で開かれた演奏会の発起人有志者一九人の中に名を連ねている(大谷渡『管野スガと石上露子』)。
『明星』が創刊されたのは三三年四月のことであるが、露子は、三六年に新詩社に入社し、『明星』三六年一〇月号に入社が報告され、短歌三首が掲載された。以後、四一年一月まで約四年間に詩一編、短歌八〇首、美文五編を『明星』に発表しており、三八年一一月には日本赤十字社第一三回総会に出席するために上京し、千駄ヶ谷(現東京都渋谷区)の新詩社に与謝野夫妻を訪問している。日露戦争は、富田林周辺でも多くの戦死者を出し、郡長も参列して町村葬が行われた(本章第三節参照)。露子も愛国婦人会や赤十字社の代表として村葬に参列するが、「よゝと泣き入る母親」の姿に胸が暗く重くなる。歌で知り合った友人たちにも、出征する者が多かった(「落葉のくに」)。露子は、『明星』三七年七月号と三八年一一月号に次のような歌を投稿している。
みいくさにこよひ誰が死ぬさびしみと髪ふく風の行方見まもる(三七年七月号)
みいくさに在るはかしこしさはいへど別れし君ぞわれの泣かるる(三八年一一月号)
新詩社の同人で幸徳(こうとく)事件の弁護人になった平出修は、露子の厭戦(えんせん)の歌を高く評価したが、露子は『婦女新聞』にも「兵士」という短編を発表し、夢に託して戦争の不条理を訴えている(大谷前掲書)。
露子は、社会主義にも関心を抱いていた。「落葉のくに」には、女扇子二本に描いてもらった竹久夢二の絵について、「こんなのよりいつもの平民新聞のさし絵のような」のが望ましかったと述べている。露子が例に挙げている挿し絵は、四〇年四月四日付の日刊『平民新聞』に掲載されたもので、そのころ露子は、日刊『平民新聞』を講読していたようである。同年五月二四日には、宮崎民蔵が土地復権同志会の遊説の途次、露子を訪ね入会させている。「落葉のくに」では弟の宮崎滔天が訪れたことになっているが、これは露子の記憶違いである。土地復権同志会は、天賦の人権と同じように天与の土地も平等に享有されるべきものであるとして、土地の均分を主張していた(同)。杉山家は大地主であったが、「落葉のくに」には、次のような記述がみられる。
きのふにつゞいて今日はまた某村の年貢取、納日は、数人の手代と下男は早朝からそこの支配人の宅へ。やがて続々とはこばれてくる米俵の山の車、五台、十台、夜に入つてもまだつゞく。運賃の支払、再度の品質検査、提灯の火が右往左往する。華やかな光景、かうしたかげにものでよんだ様な悲惨な事柄が起きてゐなければいゝが。星氷る夜空に私は祈りたいやうな。
家永三郎「石上露子日記について―明星派歌人と社会主義思想との交渉」(『明治大正文学研究』一五)に紹介された露子の書簡によると、宮崎民蔵の影響で平民社の人々と交渉が生じ、継母エイと同郷で、後に代議士になる南鼎三が訪れてきている。南は当時大阪平民社に関わっており、民蔵が福島(現大阪市福島区)の大阪平民社に森近運平を訪ねた時、南と同席したという。大阪平民社は、日刊『平民新聞』廃刊後、森近が再興したもので、露子は『大阪平民新聞』発行資金として一〇〇円を寄付している(大谷前掲書)。松村緑は、『石上露子集』の解説で、社会主義者西川光治郎・島中雄三の贈った写真が残っていると指摘しているが、島中は『婦女新聞』の中心的ジャーナリストであった(同)。「落葉のくに」は、社会主義との関わりを次のように記している。
平民新聞が配達されると云ふだけでそのすぢの眼が光る。
人の心を変にゆがめる。宮崎滔天氏の来訪をうけてよりは、ことにそれがいちゞるしい。もつとも平民社に集ふ人々より個人的な文通がしげくあるせゐもあらう。
同志と云ふよりむしろ乙女の身の、と云ふのに興味を持ち出した人もある。私はそんなものずきな、気まぐれものでは無い。もつともつとこの問題を得心のゆくまでほりさげて自分の物にして見たいからなのに。
今日も警察署長が来訪、いたづらつ児の火なぶりの様に云はれる。この温厚な署長とお父様との二人を見て私はかへつてお気の毒でならない。