明治三六年(一九〇三)、妹セイが瓜破(うりわり)村(現大阪市平野区)の大谷倍太郎に嫁した。この縁談が急がれたのは「家のあと目は妹に、生涯かうしてひとりゐと願うたがため」(「落葉のくに」)であるが、セイは翌年病死し、露子を悲しませた。四〇年一二月一七日、露子は旧家の重圧に抗しきれなくなって結婚する。「落葉のくに」には「さらば、いとほしみ来し二十六年の生涯。こよひ、とぢめのこのよそほひ、君はしりたまふや海のあなた。さらば、くろかみにおほふ夢のからなるうつそ身」と述べられている。四一年一月号に短歌五首を発表したのを最後に、『明星』の歌人石上露子に別れを告げ、その名は人々の記憶から失われていくことになる。夫荘平は、奈良県磯城(しき)郡川西村結崎(現奈良県川西町)の旧家片山家の出自で、「自らは絵筆もとり、芸術の境地もしらぬにてもなき人」(松村前掲解説)であったが、露子の文筆活動を禁止し、新詩社への脱退届を書き、『婦女新聞』の講読停止の通告を出した。露子は、社会との交渉を絶たれ、不幸な結婚生活に耐えねばならなくなった。
四三年二月に長男善郎が生まれるが、翌四四年五月には最大の理解者であった父団郎を失い、九月には生後一か月の長女が夭折(ようせつ)した。家督は夫荘平が嗣ぎ、大正三年(一九一四)三月には長三郎と改名している。長三郎は、「お父様の代に減少した富を取りかへさうとひたすら蓄財をのみ心のめどに、誰彼の反対をおしきつて家政の改革」(「落葉のくに」)に取り組み、「川辺(川野辺)、甘南備、日置荘(ひきのしよう)等々の領地米田其他を高利廻り故の株式に切り替へ」(同)たようである。当時、地主経営は困難な時期であり(第三章第三節参照)、第一次世界大戦による好景気で株式投資が盛んであった。しかし露子は、「残んのゆめの香のなごりばかりもとゞめじと、名は由ありとも家居税ともさま/゛\のかごとにかけて在りしおもかげ打ち消すべく専念する」(「落葉のくに」)と批判的であった。四年三月、次男好彦を出産するが、六年には流産をして体調を崩したようである。大正九年からの不況は杉山家に大きな打撃を与え、長三郎は、ノイローゼになったのか入院し、そのまま浜寺(現堺市)に逃避してしまった(「落葉のくに」)。露子は、破綻しかかった家政を立て直すために尽力しなければならなくなり(松村前掲解説)、この面でも才能を発揮したようである(松本和男『評伝 石上露子』)。
昭和六年(一九三一)四月、長男善郎が京都帝国大学に入学し、次男好彦も第三高等学校(現京都大学教養学部)に入学した。露子は、夫を離れて京都で親子三人の水入らずの生活を楽しむことになった。「落葉のくに」には、「忍従の二十三年、かくてこの二十三年にうつ終止符」と記されている。昭和五年、『明星』の後継誌『冬柏(とうはく)』が創刊されているが、京都に移り住んだ露子は、二十数年ぶりに復帰して短歌を投稿するようになり、七年一一月、与謝野寛(よさのひろし)(鉄幹)を迎えて鞍馬で開かれた『冬柏』の歌会にも出席している。九年、善郎が京都大学を卒業し、好彦が東京帝国大学経済学部に進学したために京都を去り、浜寺に移り住んだ。この年、長三郎は隠居し、善郎が家督を嗣いだが、一〇年を最後に露子は、『冬柏』から姿を消している。これは、善郎が結核を病んで入院したためであると思われる。一四年、善郎は家督を好彦に譲って療養を続け、一六年一二月に没した。遺骨を抱いて富田林に戻った露子は、悲しみの余り本宅に入ると同時に気を失ったという(松村前掲解説)。好彦は在学中から応召し航空兵として活躍しており、一八年、満州からジャワに転ずると、露子は「みむなみの涯のさきもりかへる日をまたぬになれてはゝは老いゆく」(「落葉のくに」)と詠んでいる。二〇年四月、終戦を待たず長三郎は没するが、好彦は無事復員する。同年一二月、露子は老女中一人を伴って富田林に戻り、それなりに落ち着いた日を送っていたが、三一年、好彦が浜寺の自宅で自死したため、孤独な老後を送ることになる。
露子は、才能に恵まれ、「根強く残存する封建的なものに抑圧されつつも、漸くのびのびと自我を解放しようとしてゐた当時の時代精神に触れて」「家族制度、既成の道徳観念、男性のいはれなき女性蔑視等に対する烈しい反感」(松村前掲解説)を抱き、批判的精神を養った。しかし、旧家の後継者として現実と妥協せざるを得ず、「たゞ恨めしいのは、この身みづから。旧い思想の、泥沼に根生ふ花藻の、もがいてももがいても浮び上ることのない、おろかしい弱いさだめをあきらめてもあきらめえず」(「落葉のくに」)と葛藤する。一時は平安を得て歌壇にも復帰するが、頼るべき子息たちに先立たれ、農地改革や戦後経済の混乱によって家産の多くをも失うことになった。しかし露子は旧家の矜持を失うことなく、三四年一〇月八日、七八歳の生涯を終えた。杉山家主屋は、富田林市が買収・修復し、国の重要文化財の指定を受けて保存・公開している。