明治末期は神社にとって大きな変革の時期であった。神道の国教化は明治初期からの政府の基本方針であったが、その実現に向けてはさまざまな問題が存在した。神道と民衆の接点はいうまでもなく神社であり神官であったが、全国には膨大な数の神社があり、それに比して神官の数はあまりに少なかった。これはそもそもそれぞれの神社が、国家の政策とは何の関係もなく、在地の信仰に基づいて設けられたものであったから当然ともいえるが、政府はこのような神社をすべて国家の管理下に置くことを指向していた。
神官の立場からすれば、自らの生活費や神社の管理費などは、近世と変わらず地元の信者からの寄進に頼っており、公費の神社・神官に対する支出の要求は明治中期以降しだいに強くなっていった。ことに神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)の公費支出については明治三〇年代から神官らによって『神社協会雑誌』などにたびたび寄稿されているが、その中でも神社の数の多さが問題点として指摘されている。つまり神社に対する公費支出の最大の障害は神社の数の多さや、地域による神社数の偏りであり、神饌幣帛料の公費支出を実現するためには、その前提として神社の整理が必要とされたのである。明治三四年(一九〇一)の第一六回帝国議会では茨城県選出の衆議院議員大津淳一郎によって府県郷村社社費に関する法律案が提出された。これは府県社・郷社・村社などの社格はその名義だけで実質を伴っていなかったので、社格に応じて神饌幣帛料を地方団体から支出することを認める法律案であった。この法律案は衆議院で可決され、貴族院でも委員会では可決したものの、本会議を通過できず成立に至らなかった。その未成立の大きな理由の一つは当時の神社の数の多さにあった。
法律の未成立を受けて神社を管轄する内務省は、神饌幣帛料の公費支出および神社整理の推進に努めた。明治三九年四月の地方長官会議では議題の冒頭に「神社合祀勧奨ニ関スル件」が挙げられ、内務省の方針が示された。四月二八日には府県社以下神社の神饌幣帛料供進(ぐしん)に関する勅令(第九六号)が公布され、八月九日には神社寺院仏堂合併跡地の譲与に関する勅令(第二二〇号)が出された。この時期は日露戦争の勝利によって国民の間に強いナショナリズムが芽生えた時期であり、このような世相の中、内務省の神社整理政策は進められたのである。