大阪府における神社合祀

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神社合祀の進捗は地域によって大きな差がみられた。表53は合祀が本格化する以前の明治三六年(一九〇三)と合祀の動きが一段落した大正三年(一九一四)の神社数を比較したものである。全国的にみるとこの期間に神社の数は三分の二に減少している。また伊勢神宮が所在し神社合祀のモデル県の趣があった三重県や、南方熊楠(みなかたくまぐす)によって猛烈な合祀反対運動が起こされた和歌山県などでは、神社数は約一割に減少している。大阪府はそれに比べると合祀の動きは緩やかではあるが、それでも三分の二の神社がこの時期に姿を消している。

表53 神社数の推移
明治36年 大正3年 B/A
府県郷村社 境外無格社 合計(A) 府県郷村社 境外無格社 合計(B)
三重 1,733 5,250 6,983 673 130 803 0.1149
滋賀 1,029 1,985 3,014 1,010 1,009 2,019 0.6698
京都 1,108 1,932 3,040 1,095 1,621 2,716 0.8934
兵庫 2,261 5,216 7,477 2,124 2,886 5,010 0.6700
大阪 1,234 740 1,974 620 92 712 0.3606
奈良 1,232 792 2,024 1,115 474 1,589 0.7850
和歌山 680 3,158 3,838 365 134 499 0.1300
全国 56,180 136,947 193,127 49,731 72,691 122,422 0.6338

注)森岡清美『近代の集落神社と国家統制』所載表を改変。

 大阪府では先に述べた政府の勅令を受けて明治四〇年一一月六日に訓令二四号をもって、神社整理の方針を示している。残存を認められる神社の基準は延喜式内社(えんぎしきないしゃ)などの由緒の古さに加えて、六〇〇〇円の基本財産を用意することであった。この六〇〇〇円という額は全国的にも最も高かったが、これを準備できない神社はいずれかの神社に合祀せざるを得なかった。本市を含む南河内地域は府下でも最も合祀の進行が著しい地域であったが、その背景には府の強力な指導があったものと思われる。『全国神職会会報』一一〇号(明治四〇年一二月)には大阪府の神社合祀について次のような文章が載せられている。

当府(大阪府)の方針は此の際各村落の神社廃合を決行せんとし、表面神社合併の好意勧告てふ名の下に実際は下級郡村吏員を督励して、殆ど強制圧迫に均しき干渉を為し、若(も)し町村にして廃合を肯ぜざるに於ては、六千円積立の基本財産問題を以て窘窮(きんきゆう)せんとすれど、之が根拠は至つて薄弱の者にて唯(ただ)一片の訓令たり内規たり、去れば各郡到る処に於て反対の挙に出づる者続出し、当局が豊能(とよの)・泉南・南河内の三郡を以て最もよく廃合の実を得たりと称するも、其の実殆ど強制の結果此に至りしものにて(後略)

 この文章は合祀反対の立場の神官によって書かれたものであり、当時の神社合祀をめぐる雰囲気をよく伝えている。