さて本市域においては神社合祀はどのように進められたのであろうか。表54は市域の神社について合祀の状況を整理したものである。ただし境内外の摂社や寺院の鎮守社、小祠などは除外している。これによると富田林市域では春日神社、錦織神社、美具久留御魂(みぐくるみたま)神社、佐備神社、咸古(かんこ)神社の五社だけが残されたことになる。この表をみるかぎり、合祀は村や区を単位にしたものではなく、むしろ近世以来の信仰圏に基づいて、以前より関係があった神社に合祀されることが多かったものと思われる。
近世村 | 近世村の神社 | 合祀先 | 合祀年月日 |
---|---|---|---|
嬉 | 菅原神社(天神社) | 春日神社 | 明治40.12.13 |
横山 | |||
伏見堂 | 伏見堂神社 | 春日神社 | 明治40.12.11 |
彼方 | 春日神社 | ||
彼方 | 白山権現 | ||
板持(西板持) | 板茂神社 | 建水分神社 | 明治40.11.13 |
錦郡 | 若宮神社 | 錦織神社 | 明治42.6.1 |
錦郡新田(須賀) | 菅原神社(天神社) | 錦織神社 | 明治41.2.8 |
伏山新田 | 伏山神社(牛頭天王宮) | 錦織神社 | 明治41.2.8 |
廿山 | 熊野神社(三所権現) | 錦織神社 | 明治40.8.23 |
加太新田 | 稲荷神社 | 錦織神社 | 明治40 |
新家(錦部郡) | |||
甲田 | 水郡(錦織)神社 | ||
喜志 | 美具久留御魂神社 | ||
新家(石川郡) | |||
新堂 | |||
中野 | |||
富田林 | |||
毛人谷 | |||
南大伴 | |||
北大伴 | |||
山中田 | 大伴神社 | 美具久留御魂神社 | 明治40.10.19 |
南別井 | 別井神社 | 建水分神社 | 明治40.10.19 |
北別井 | 別井神社 | 建水分神社 | 明治40.10.19 |
板持(東板持) | 厳島神社 | 建水分神社 | 明治40.10.19 |
佐備 | 佐備神社 | ||
龍泉 | 咸古神社 | ||
甘南備 | 咸古佐備神社 | 咸古神社 | 明治42.12.2 |
注)大阪府保管の寺院・神社明細帳および『大阪府全志』1より作成。ただし合祀年月日は諸史料によって若干の差がある。
長年信仰の対象としてきた神社が地元からなくなることについては、当然のことながら強い抵抗があった。『全国神職会会報』一一八号(明治四一年八月)には、建水分(たけみくまり)神社(千早赤阪村)への合祀に際して次のような記事が載せられている。
今日は遷座といふ其の朝であつた、村村の同じ氏子の中でも殊に年齢を取つた老人達は、いよいよ今日からうちの氏神様がお転宅をなさる、時世時節とは言ひながら何程(いかほど)軒の傾いた柱の歪んだお社ぢやとて何百年の昔から此の在所に御座つてお拝み申してお縋(すが)り申して沢山の御利益を戴いた氏神様此処は厭ぢやとはお仰やらぬに何といふ情ないことになりましたと声を揃へて泣き出す
このような合祀に対する強い抵抗感や、元の神社への愛着はその後も引き継がれることとなる。合祀が多く行われた地域においては、合祀直後から神社復活の動きがあり、戦後になってから神社を再建した村落も多くみられる。市域においても西板持の板茂神社のように後年になって再建された神社がある。