市域の各社における合祀の状況のうち、史料が残りその様子が明らかな錦織神社について少し細かくみていくこととしたい。
錦織神社は甲田に鎮座しており、近世より甲田、錦郡、新家の人々によって祭祀されてきた。明治四〇年(一九〇七)一月に神饌幣帛供進社となり、以後周辺の神社をここに合祀する動きが進められた。表54に示したとおり、錦郡の若宮神社、錦郡新田(須賀)の菅原神社、加太(かた)新田の稲荷神社、伏山(ふしやま)新田の伏山神社が明治四〇年から四二年の間に次々に錦織神社に合祀されている。表54には『大阪府全志』に記載された合祀年月日を載せている。『大阪府全志』の合祀年月日は大阪府が各神社氏子から出された合祀願いに対して、許可を与えた日を記載しているようであるが、実際の合祀の過程は複雑であり合祀の日を特定することが困難なものが多い。加太新田には稲荷神社という村社があり、大字内の氏子三一軒によって祭祀されていた。また廿山(つづやま)にも熊野神社が祀られていた(錦織神社文書「河内国錦部郡神社明細帳」)。この両社は明治四〇年八月九日に錦織神社境内に社殿を建立しそこに神霊を移すことを願い出ており、これは即時に大阪府より許可されている(同「願届綴」)。しかしながら合祀はこの時には行われなかったようで、翌四一年二月には社殿の新築を取り止め錦織神社本殿右側の相殿に合祀したいという願いが出されている。この案も実現には至っておらず、明治四二年一〇月には稲荷神社を本殿に合祀し、熊野神社については既存の社殿を錦織神社境内に移転したいという願いが出されている(同)。このように再三合祀の手法について案が改められた背景に、神社がなくなる大字内に合祀に対する強い抵抗が存在したことを想像させる。また合祀の後も、錦織神社の本殿に合祀されるのではなく、別個の社殿に祭祀されたいという希望が神社が合祀される側の大字には強く、またそのためには移築、新築の費用も必要であるという事情もあって、合祀の実現が遅れたものと考えられる。合祀を行った場合、廃された神社の社地は売却し、その代金を合祀先の神社の基本財産とすることが基本とされたが、神霊を移した後も社地の処分についてはさらに時間を要している。これは社地が元のとおりであれば、再び神社を復活させることが可能であるという考え方が地元に強くあったためであろう。稲荷神社の社地は明治四三年一月にようやく錦織神社に無償譲与され、大正二年(一九一三)二月にその売却願いが地元から府に出されている。入札の結果、社地および境内の材木が売却され一連の合祀の手続きが完了したのは同年五月のことであった(「願届綴」)。
なお錦織神社では合祀の進行に合わせるように社号をそれまでの水郡(にごり)神社から錦織神社へと改めている。神社側から府へ提出された願いには錦織神社が古来からの呼称であり、中古にそれを誤って水郡神社としたため、元のものに復称したいという主張が記されている。しかしながら府からさらに詳細な理由を求められ明治四〇年五月に提出した「上伸書」(同)では、錦郡には天誅組で活躍した水郡善之祐の子孫が居住しており、水郡善之祐を祭祀した神社であるとの誤解を避けるために社号を変更したいという理由を回答している。これは他大字の神社との合祀にともなって、社号をめぐる混乱を避けるための措置と考えられるだろう。