多くの神社が合祀されていく中で、当初は合祀を予定されながら、それを免れた神社もあった。大字佐備に鎮座する佐備神社は当初、神饌幣帛供進社に指定されておらず、建水分神社に合祀される予定であった。その最大の要因は、基本財産の不足にあった。氏子総代からは明治四一年(一九〇八)三月一一日付けで合併の上申書が府に提出されている。ところがその後も氏子の間で協議は続けられ、その結果佐備の東(ひがし)寅吉が所有地の一部および寄付金を神社に寄進し、そのほか大字佐備の共有財産の山林についても神社に寄進し、これらを基本財産に充てることによって合祀を避けるということになった。明治四二年七月三〇日には府に対して前回の合祀願いを取り下げ、以後も佐備神社を存続させたいという「上伸書」が提出されている(佐備神社文書)。このような運動の結果、佐備神社の合祀は回避された。佐備神社の境内には昭和二八年(一九五三)に建立された、東の功績をたたえる記念碑が建立されている。