瀧谷不動

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明治後期の富田林の仏教史において特筆すべき事項として瀧谷不動(たきだにふどう)(明王寺)に対する信仰の著しい伸長が挙げられる。瀧谷不動は空海創建の伝承を持ち、本尊の不動明王像(重文)は平安中期の作という古寺である。南北朝以降、戦乱のために数度の焼失にみまわれ、近世において寺勢はふるわなかった。この瀧谷不動が明治以後、大きく発展したのは、同寺の中興といわれる高取慈恭の力によるところが大きい。高取は明治二三年(一八九〇)に本堂を再建し、その後も客殿、庫裏なども建立して境内の整備に努めた(彼方尋常高等小学校編『郷土史』)。元来修験道とのつながりが深い瀧谷不動は近世以来檀家を持たない寺院であった。このような寺院はおのずからその性格が現世利益的なものとなる傾向がある。瀧谷不動の場合には眼病平癒の霊験がその信仰の広がりに大きく寄与している。高取が編纂した『滝谷不動尊霊験記』(明治三〇年刊)には瀧谷不動に参拝してそれまでは治癒しなかった眼病が治ったという霊験譚(れいげんたん)がいくつも載せられている。高取はそのような霊験をきっかけに同寺の信者となった人たちを中心として各地に講社を作っていった。講社は昭和初期には約二〇〇ほどもあり、その分布は大阪市から南河内、泉州に広がっていた。講社の講員は毎月二八日の縁日に瀧谷不動に連れ添って参拝するようになり、大正時代には、縁日には境内や参道に多くの露店が並ぶようになった。瀧谷不動の縁日に出る店は日常雑器、農具、苗種などを扱うものが多く、近隣の特に信仰を持たない人々にとっても重要な交易の場となっていった。また瀧谷不動信仰が広域化した背景の一つに、明治後期の鉄道の整備がある。明治二二年に大阪鉄道が湊町―柏原間に開通し、三一年には河陽(かよう)鉄道が柏原―富田林間に引かれた。河陽鉄道の後身である河南鉄道は明治三五年に長野まで延びているが、この年に滝谷不動駅ができている。一連の鉄道整備によってそれまでは近隣に限定されていた瀧谷不動の信仰圏は、南大阪全体に大きく拡大した。鉄道会社もガイドブックに瀧谷不動の霊験あらたかなことを記載し、割引往復切符を発売するなど、その宣伝に努力している。

写真70 縁日の風景(瀧谷不動明王寺参道)