日露戦後、世界列強に伍していくための国力増進策の一つとして、末端行政機構としての町村の強化が叫ばれた。しかし町村は疲弊しており、財政難にあえぎ、町村制が期待した名望家支配も十分機能していなかった。このような状態に危機感をいだいた政府は、明治四一年(一九〇八)一〇月、戊申(ぼしん)詔書を発し、国民に一致協力して勤倹節約に努め、殖産に励むことを求めたが、これを具体化し、町村の強化を図るため、内務官僚によって地方改良運動が展開された。財政難解決のため部落有財産の統合による基本財産の造成、農事改良による生産力の強化などと共に、旧村割拠の精神的よりどころとなってきた神社の町村社への合祀、旧来の慣行・行事の廃止と国家祝祭日の定着などによって、国民意識の高揚、町村民の一体感を養成しようとした。また、この運動を推進するために、産業組合・青年会・在郷(ざいごう)軍人会などの育成も図られた。
地方改良運動の推進にあたって、郡は町村に対して指導力を発揮しようとした。南河内郡でも、大正期になると歳出科目に地方改良費と地方改良研究費が加わる。地方改良費は、地方行政視察費として明治四五年度から予算に計上されたようで、四五年二月の郡会で「行政視察ニ付テハ効力アリヤ」という質問がなされている。郡書記は、これは社会教育なるもので、早計に効力いかんを云々するべきものではないとしながら、昨年一〇月実施以来、種々影響もあり、「視察ガ動機トナツテ益共同一致好成績ガ挙ルナラント存シマシテ、理事者ハ大ニ視察ノ必要ヲ感シテ居ルノデアリマス」(富田林杉田家文書「大阪府南河内郡通常郡会々議録」)と答弁している。地方改良研究費は、町村吏員や有志者を集めて開かれる地方行政講究会の補助である。
大正九年(一九二〇)、大阪府自治行政講究会南河内郡支部は、「南河内郡地方改良例月研究会会則」を定めている。この会は、郡町村吏員を会員とし、「法律命令及自治行政ノ作振、民力涵養(かんよう)」など地方改良に関する事項を研究、実行することを目的としていた。例会は毎月一〇日に開かれ、必要に応じて臨時会を開くこともできた。経費は、会費を徴収せず、大阪府自治行政講究会南河内郡支部の経費をもって支弁することになっており、郡費から支出されたものと思われる。九年七月二七日から二九日までの三日間、大阪府主催の自治講習会が河南高等女学校で開かれた。参加資格は、町村吏員、町村会議員、区長・区委員を含む篤志者、青年会員、産業組合・町村農会の幹部員で、各町村一人以上の吏員の出席の義務があり、その他の者も二人以上を勧誘出席させるよう通達が出されていた。ちなみに錦郡村からは、書記・収入役と村会議員など三人、合計五人が参加している。会は、午前九時から午後三時まで昼休み一時間を挟んで一時間ごとの時間割が組まれ、講習の項目は自治当局の心得、許可稟請事項、条例規程、事務整理、会計に関する事項、徴税事項、公民教育と村勢調査、民力涵養であった(富田林市所蔵文書錦郡村「議事書類綴」)。
日露戦後の産業経済の発展、都市化の進展は、町村規模の拡大を招き、郡の位置を相対的に低下させた。西園寺(さいおんじ)内閣も、行政整理による財政緊縮の一環として郡制廃止を提案したが、貴族院の反対のため実現しなかった。しかし、大正一〇年には郡制廃止案が議会を通過し、一二年三月に郡制が廃止され、郡は単なる行政区画となり、一五年には地方官官制の改正によって郡長が廃止され、郡役所も廃止された。南河内郡役所では、一三年一月、郡制廃止にともなう郡事業の移管による町村負担の増加額を調査している。また一五年二月には、役所の廃止によって町村事務が増加する見込みであるが、郡内の町村吏員の待遇は他郡に比して遜色(そんしょく)があるので、一五度予算編成にあたって待遇を改善するよう要望している。