大正三年(一九一四)二月二六日、錦郡村会に、錦郡村外一ヶ村学校組合を三月三一日限り廃止することが提案された。この学校組合は、錦郡村と市新野(いちしんの)村(現河内長野市)の組合で、明治二五年(一八九二)一〇月一日に認可を受け、市新野尋常高等小学校と錦郡尋常小学校を設置し、大字須賀・伏山(ふしやま)の生徒は市新野尋常高等小学校に、大字錦郡の児童は錦郡尋常小学校に通学していた。第二章第一節でみたように、町村制施行にともなう村の編制にあたって、錦郡新田・伏山新田は市村新田との合併を希望していたが錦郡村と合併することになった。しかし、町村制による錦郡村はまとまりが悪く、財政もほとんど大字単位になっていた。このような不自然な学校組合が作られたのも、そのためであったといえる。村長は、組合解散を提案するにあたって、その理由を次のように述べている(錦郡村「議事書類綴」)。
本村児童ノ教育ヲ各大字毎ニ異ニスル時ハ、只ニ民情ヲ異ニスル而已(のみ)ナラズ、各部落ニ割拠心ヲ起サシメ、村治上円満ヲ欠クノ嫌アリ、故ニ今般組合ヲ解除シ一村一校ヲ設置シ(中略)児童教育ノ統一ヲ計リ、村ノ平和ヲ保持シ、協力一致ノ精神ヲ涵養セントス
そのため、適当な場所を選んで校舎を新築する計画を立て、建築費として、基本財産五五〇円の繰入れと六八〇〇円五年賦の起債を提案した。学校組合解散に関するこれらの提案は紛糾したようで、村会は休会となり三月二日に再開してようやく可決した。ところが四人の議員が、「学校新改築事件ニテ村輿論(よろん)ト其意志相通セザルモノアリ」として辞表を提出した。三月二〇日の村会は、四人の辞職を認めるとともに、学校組合解散、校舎新築に関する議決の施行を四年度に延期することを議決した。しかし、五年二月二九日の村会には、「米価ノ下落依然トシテ農民経済上ニ与ヘタル打撃ノ大ナルモノアルハ勿論、本村将来ニ於ケル経済上ニ鑑(かんが)ミル処アリ」として校舎建設の中止が提案可決され、千代田村(五年四月一日、市新野村は千代田村と改称)との学校組合は解消しなかった。なお、大正六年度から錦郡尋常小学校は尋常高等小学校となり、それにともなって、富田林高等小学校に通学していた錦郡村の生徒は、錦郡尋常高等小学校に通学するようになった。錦郡村は富田林町外六ヶ村学校組合を脱退している。
大正一一年四月一九日、再び錦郡村外一ヶ村学校組合の解消案が村会に提出された。この提案は、錦郡小学校を移転するか分教場を設置して大字伏山・須賀の児童を錦郡小学校に吸収するか、もしくは大字伏山・須賀の児童を千代田村に委託するかいずれかの方法によって学校組合を解消しようというものであった。大字伏山・須賀は、千代田村との一部教育事務組合を構成することを希望していたようであるが、制度上難しかったようである。しかし、この提案は、またもや否決されて学校組合は解消されなかった(錦郡村「議事書類綴」)。大正一五年(昭和元年)、錦郡小学校を新築移転することでようやく学校組合を解消することになり、昭和二年(一九二七)、新校舎が落成して移転した(錦郡尋常高等小学校「小学校一覧表」)。