明治三二年(一八九九)五月一一日、経営破綻によって解散した河陽鉄道の後を受けて創業した河南(かなん)鉄道は、当初から経営が苦しく、重役が辞任するなど不振を極めた。地元の資産家を役員に迎え、経費を削減して、三五年一二月には富田林―長野間の延長工事が竣功し営業を開始したものの、経営状況は改善されなかった。社運発展のためには、発展著しい大都市大阪に進出する必要があり、早くから計画を立てていたが、日露戦争後、経営が少し安定したので、四四年一〇月三日、柏原―玉造間の路線延長を出願した。四五年五月二五日、常務取締役松永長三郎が鉄道院総裁原敬(はらたかし)にあてた嘆願書は、その間の事情を次のように述べている(国立公文書館所蔵「鉄道院文書」)。
明治四十二年下半期ニ至リ漸(ようや)ク少許(しょうきょ)ノ配当ヲ為シ稍々(しょうしょう)株主ノ愁眉(しゅうび)ヲ開キタルモ、是只随力的進歩ノミ、爾来(じらい)今日ニ至ル毎期二歩乃至五歩ノ配当ヲナシ来リタルモ、是レ実際ノ利益ト云フヨリモ設備費ヲ極端ナル節減ヨリ操(繰)出シタルモノニシテ、此操延ヘタル施設ヲ完成センニハ忽(たちま)チ状況一変シテ利益ニ一頓挫ヲ来タスベキ状態ニ有之、前陳之如ク経営ニ吸(汲)々タル弊社ノ前途ハ只延長線敷設ノ一途アルノミ
大阪鉄道は、三三年に関西鉄道と合併し、四〇年、鉄道国有法によって国有化され関西線となっていたが、その柏原―大阪間と出願路線が併行線とみなされたためか、半年経っても認可されなかった。そこで上記の嘆願書を提出し、次のように主張した(同)。
当社ノ延長線ニ望ヲ属(しょく)スルハ、旅客ヨリモ当社沿道全長ニ亙(わた)ル石川ヨリ採取スル無尽蔵タル砂利ヲ阪地ニ搬出スルヲ最大目的トナスモノニシテ、此ノ延長線タルヤ一見併行スルノ観有之候モ、事実ハ現在院線トノ巨(距)離数十町ヲ離レ旅客貨物等ニ於テモ沿道ノ勢力範囲ヲ浸(侵)害スルヲ認メス
しかしこの計画は認可されず、大正二年(一九一三)六月、出願を取り下げることになった。四年六月にも同様の出願を試みたが認可されず、八月、再度出願を取り下げることになり、大阪進出は、第一次大戦後に持ち越された(同)。
第一次世界大戦によって景気が好転すると、河南鉄道では再び大阪進出の気運が生じた。大正五年一一月二七日、従来の計画を変更して道明寺から天王寺に至る線路敷設を出願したが、役員間に異議が生じ六年三月三日いったん出願を取り下げるに至った。しかし、同年四月二八日に越井醇三が社長に就任すると、積極的に計画を推進することになる。計画は、当初、古市を分岐点として藤井寺に出る案と道明寺を分岐点として藤井寺に出る案とがあったが、同社が明治四一年に開設した玉手山遊園地の利用や道明寺天満宮参拝の便宜を考えて道明寺分岐案に決定した。七年三月二九日に鉄道大臣に免許を出願し、六月二二日に「右申請ニ係ル大阪府南河内郡道明寺村ヨリ同府東成郡天王寺村ニ至ル軽便鉄道ヲ敷設シ旅客及貨物ノ運輸営業ヲ為スコトヲ免許ス」という免許状が下付された(『大鉄全史』)。
着工に先だち測量に着手するとともに、八年三月八日に株主総会を開き、社名を大阪鉄道株式会社と改称することを決議し、さらに資本金を六〇万円増資して総額九五万円とし、四〇万円までの借入金を認めた。免許状では、道明寺―天王寺間も柏原―長野間と同様に軽便鉄道を敷設することになっており、蒸気機関車による輸送が計画されていた。ところが、電気鉄道による競争線の敷設計画のあることがわかり、急きょ、電気鉄道に計画を変更することになった。八年一二月一日、臨時株主総会を開催して承認を得、九年二月四日に電気鉄道事業経営の許可申請をし、一〇年六月二五日、許可状の交付を受けた。さらに、臨時総会では資本金を一〇五万円増資して総額二〇〇万円とすることと、鉄道財団を組織し、それを抵当に一〇〇万円の借入をすることを決議している。七月一日、道明寺天満宮で起工式を挙げ、道明寺―布忍(ぬのせ)間の工事に着手したが、将来の輸送量を見込んで複線に計画を変更することになり、一〇年一〇月二二日の株主総会で承認を得た。総会は、三〇〇万円を増資し、一〇〇万円以内の借入金を認めることも決議している。一一年三月末に道明寺―布忍間が電気工事を除いて竣功し、一二年三月二三日、布忍―天王寺間も竣功した。四月一三日、道明寺―天王寺間の営業を開始し、一五分間隔で運転するようになり、同年一〇月一六日には道明寺―長野間の電化も実現した。さらに一二年一二月二二日、信号設備の完成を待って貨物運送事業も開始されている(『大鉄全史』)。
大阪鉄道は、当初、電力を自給する方針を取り、電灯・電力供給事業を兼営するために九年一二月三日の臨時株主総会で定款の営業項目に加え、許可を申請した。しかし、電灯・電力供給事業は、電気事業法によって特許区域制度があり、沿線地域はすでに他の会社の営業区域に指定されており、一二年六月四日、申請は却下された。そのため、電力は宇治川電力株式会社から供給を受けることになり、高鷲(たかわし)(現羽曳野市)に変電所を設置した(同)。
大正五年、南河内郡立高等女学校の新校舎が落成すると(本章第三節参照)、富田林と滝谷不動(たきだにふどう)の間に学校前停留場(現近鉄富田林西口駅)が設けられ、通学生徒のため午前・午後に上下各一回気動客車を停車させることになった。ところが停留場が学校と反対側にあって不便なため、九年九月、線路の反対側に移設し、上屋を新設した。また同月、乗降客の多い太子口喜志停車場(現近鉄喜志駅)には旅客のための待合室を設けている。九年八月には、川西村大字甲田に廿山(つづやま)停留場(現近鉄川西駅)を新設し、気動車を停車させて旅客運輸を取り扱うことになった。これは、狭山村(現大阪狭山市)を経て泉州に通じる郡道と交差する交通の要所であり、住宅経営の企画が続出していたためである。その一方、汐ノ宮停留場は、汐ノ宮温泉入浴客のために設けられていたが、一〇年五月、温泉場が廃業したために乗降客が皆無の状況になり、採算が取れなくなったので、一一年一月一日から閉鎖された。しかし、一二年一〇月に道明寺―長野間が電化されると、大阪鉄道は汐ノ宮停留場を再開し、汐ノ宮温泉の経営に乗り出すことになった(『大鉄全史』)。
河南鉄道・大阪鉄道は貨物の取扱いもしており、八年三月、砂利運搬の臨時貨物列車を編成するため錦郡駅の仮設を申請した(同)。錦郡村大字錦郡では大正三年三月に、南河内郡狭山村大字半田(現大阪狭山市)藪内松太郎・錦郡村大字錦郡荒堀清吉・彼方(おちかた)村大字伏見堂荒堀宇三郎・錦郡村大字錦郡古山キンらが石川砂利販売合資会社を設立し、砂利・栗石・土砂の販売をしていた(『大阪朝日新聞』大正3・3・14)。この会社は、五年一月に解散していたが(同5・1・12)、その後も石川の砂利の採取は盛んに行われていたようである。九年九月には太子口喜志停車場に貨物積降しのために側線を増設し、貨物上屋を新設している(『大鉄全史』)。