河内電気鉄道計画

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大正一五年(一九二六)六月一日、河内電気鉄道株式会社の発起人福井豊三郎ほか八人が、「電気鉄道敷設免許申請書」を鉄道大臣仙石貢に提出した。起業目論見書によれば、南河内郡狭山村の南海鉄道狭山駅から川西村・富田林町を経て、新堂村の大峰登山鉄道富田林停車場に至る電気鉄道を敷設するというものであった。大峰登山鉄道は、富田林駅から日置荘(ひきのしょう)(現堺市)に至る鉄道で、大正一四年四月に設立申請書を提出していたものである。河内電気鉄道株式会社は、資本金は一株五〇円で、総額五〇万円の半額を発起人が出資し、半額は公募することになっていた。路線は延長三マイル四〇チェーン(約五・六キロ)、軌間三フィート六インチ(約一・〇六メートル)、地方鉄道法による電気鉄道で、南海鉄道高野線と大阪鉄道の間の旅客・貨物の運輸を行おうとするものであった。鉄道省の諮問に対して、大阪府は、規模が小さいので支障を生じることはないだろうが、発起人のうち二人は資産十数万円を有するものの、ほかは資力信用とも薄弱であること、旅客・貨物の見積りが過大で、所定の収益を上げるのは困難であること、沿線は山地が多く、地方開発上、運輸上の効果は期待できないことを指摘している。その結果、鉄道省は昭和二年(一九二七)六月、河内電気鉄道敷設願いを却下している(国立公文書館所蔵「鉄道省文書」)。