明治四三年(一九一〇)、金剛水力電気・千早川水力電気・滝畑水力電気の三水力電気事業が計画されていた。その目的は、電灯や高野登山鉄道、木綿織などの工場に電力を供給しようというものであった(『大阪朝日新聞』明治43・12・28)。千早川水力電気は、千早村大字東阪(現千早赤阪村)の千早川筋に発電所を設置する計画であったが、四三年六月三〇日、東条村会が水利上支障があると認定する決議をして反対の意向を示した。その主張は次のようなものであった(富田林市所蔵文書東条村「議事録綴」)。
学理上如何哉ハ存ゼザレトモ実際上多少共水量ノ減スルモノト断言ス、而シテ其水権ハ千早村・東条村関係ノ堀越井路ニテ普通ノ年ニテモ全部引用シ居リ、余水ノアルコト至テ稀ナリ、多少晴天続キトナレバ仝井路七、八分ヨリノ水量ヨリ無之、又千早村・東条村・赤阪村関係ノ花折井路ハ其余水ヲ引用スルモノナレバ、平年ニ於テモ不充分ナルニ、現在水量ヨリ多少減スルモノトスレバ三ヶ村関係ノ田数百町歩ニ非常ノ障害ヲ与フルモノトス
水利権の補償がどのように行われたか不明であるが、千早川水力電気株式会社は認可を得て、四四年一二月一二日に設立された。「千早川ノ水力ヲ利用シテ電気ヲ発生セシメ電燈電力ノ供給及電気機械ノ販売事業ヲ経営スル」ことを目的とし、資本金は一五万円で本社を南河内郡長野町大字長野(現河内長野市)に置いたが、後に三日市村大字喜多(同)に移転した。取締役は森久兵衛・宇喜多秀穂・加納由兵衛、監査役は遠藤美之・東尾平太郎で、東尾以外は大阪市内の企業家であった(『大阪朝日新聞』明治44・12・21)。大正元年(一九一二)九月、千早村大字東阪の水路などの用地の貸借契約を結んで、工事に着工した。敷地は永久貸借とし、使用料は一坪につき田地玄米二升、畑地一升五合、山林一升であった(「土地貸借契約書」『千早赤阪村誌』資料編)。千早川水力電気は、大正元年一一月に開業するが(『関西地方電気事業百年史』)、千早川に二か所、滝畑に二か所の発電所を有するようになり(『千早赤阪村誌』本編)、経営は比較的順調だったようで、大正三年には、二七〇〇円、年五朱強の配当を行い、四年は五二六〇円、七朱、五年は七五〇〇円、一割となっている(『大阪朝日新聞』大正3・5・4、4・5・2、5・10・30)。大正一〇年七月には創立一〇周年記念として錦郡村に一一五円の寄付を申し込んでおり(富田林市所蔵文書錦郡村「議事書類綴」)、他の関係諸村にも同様の寄付をしたものと思われる。
大正七年の「電灯供給規程」(河内長野市立郷土資料館所蔵)によれば、電灯は金属線電球・炭素線電球を用い、日没から日の出まで終夜点灯するが、定額と計量の二種類があり、その料金は表63・64のとおりである。電球線は一灯につき一〇尺(約三メートル)以内とし、三尺までは無料貸与するが、それ以上は費用を徴収する。電球は、発光線が自然切断するか、著しく光力が減退した時は無料で取り替える。定額灯の器具は、会社が取り付けて貸与するか売り渡し、計量灯の計量器は、灯数に応じた貸料を徴収することになっていた。この年の発電力は一五五キロワット、白熱灯取付数五二六一個、電動力一九二馬力で従業員数は三〇人であった(『関西地方電気事業百年史』)。九年、富田林町の仲村信昌ほか三人らが赤阪村大字桐山(現千早赤阪村)の水力製綿工場を買収し、その井堰を利用して発電所を設置する計画を立てた。それに対して九年二月、大字桐山が、灌漑・食料用精米水車・飲料水などに影響があるとして異論を唱え、それを受けて村長は、同年二月、府知事に上申書を提出した(『千早赤阪村誌』資料編)。しかし一〇年一月一二日、大字桐山はこの計画を承認し、毎年三〇〇円の報酬を支払うことと、使用期間の制限、精米用水車所への動力の無料提供などの条件を付けて契約を交わしている。契約の相手は、大阪電力株式会社発起人総代であった(同)。大阪電力は、一四年に大同電力株式会社の子会社として設立され、大阪南部の一般供給事業を担当することになる(『関西地方電気事業百年史』)。
種類 | 室内灯 | 門灯(街灯) |
---|---|---|
燭光 | 円 | 円 |
6 | 0.50 | 0.45 |
10 | 0.65 | 0.60 |
16 | 0.90 | 0.80 |
24 | 1.10 | 1.00 |
32 | 1.30 | 1.10 |
50 | 1.50 | 1.20 |
100 | 2.50 | 2.20 |
注)河内長野市立郷土資料館所蔵「電灯供給規程」より作成。
1か月使用電力 | 1000ワット時料金 |
---|---|
ワット | 円 |
20,000以内 | 0.18 |
20,001~40,000 | 0.16 |
40,001~70,000 | 0.15 |
70,001~100,000 | 0.14 |
100,000以上 | 0.13 |
注1)20,000ワット以上は、超過電力料の料金。
2)河内長野市立郷土資料館所蔵「電灯供給規程」より作成。
金剛水力電気株式会社も千早川水力電気株式会社と前後して設立され、資本金七万五〇〇〇円、取締役社長は神山(こうやま)村(現河南町)の高橋太郎兵衛で、富田林町ほか二六か町村に電力を供給した(『河南町誌』)。南河内郡河内村(現河南町)に水力発電所七五キロワットと新堂ガス発電所二基二五キロワットを設置し、大正元年九月に開業しているが『関西地方電気事業百年史』)、事業の許可が遅れたらしく、明治四五年六月、富田林町は次のような陳情書を逓信大臣に提出している(富田林勝山家文書)。
本町ハ金剛水力電気株式会社ニ於テ常用瓦斯(ガス)力発電所設置出願セラルヽヤ町民挙テ電灯ノ申込ミヲ為セリ、抑(そもそ)モ吾町ハ南河内郡中枢要ナル土地ニシテ、諸官衙ノ設置ト交通機関ハ完備セルモ、未タ電燈ノ設ケ無キ為メ夜間営業不振ノ状態ニ有之、故ニ町ノ発展上大ナル影響ヲ及ホスハ甚タ遺憾トセリ、殊ニ本年八月壱日ヨリ第六回内国製品博覧会開催可致候ニ付テハ、事小ナリト雖(いえど)モ本町ニアリテハ空前ノ一大盛事ト謂ハサルベカラス、而シテ此際各商人ハ電灯ヲ利用シ夜間営業致シ度キ希望ニ有之候、換言スレハ電灯ノ有無ハ本町発展上多大ノ影響ヲ及ホスコト信シテ疑ハス、希(こいねがわ)クハ刻下ノ状況御洞察之上直ニ御許可ヲ同会社ヘ与ヘラレンコトヲ懇願ス
大正六年、金剛水力電気の役員が大幅に交代し、日置藤夫が取締役社長に就任し、千早川水力電気の取締役社長森久兵衛が監査役に就任するが(『大阪朝日新聞』大正6・10・29)、七年二月、大阪高野鉄道に吸収され、一一年九月には大阪高野鉄道も南海電鉄に合併されることになる(『関西地方電気事業百年史』)。千早川水力電気でも、九年一一月に役員が交代し、元金剛水力電気社長の日置藤夫が取締役に就任しているが(『大阪朝日新聞』大正9・11・14)、独立して操業を続け、昭和一三年(一九三八)になって大同電力に合併する。大正一三年には、公称資本一八〇万円、水力発電四一二キロワットのほかに四五〇キロワットの電力を購入しており、電灯電力収入は一七万九〇〇〇円であった(『関西地方電気事業百年史』)。
第一次大戦後になると、水力発電の施設が需要に追いつかず、電力が不足し電力飢饉といわれる状況を生み出した。千早川水力電気でも、一一年夏の干天で水源が涸渇し、電力に不足が生じた。長期にわたり休業を余儀なくされた工場主六〇余人が河南工業同志会を結成し、長野製革工業会社長北野与平を会長に選出して、会社に対して損害補填料四万円を要求して、電気料の不払いを申し合わせた。会社は、それに対して送電停止を通告するなど、紛糾した(『大阪朝日新聞』大正12・2・24)。一三年、千早川水力電気は、大同電力系の浦田変電所から受電するようになり、電力の不足は解消したものと思われる(関西電力大阪南支店『水力発電所の歴史』)。