河内紡織の創立

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第一次世界大戦前の大正三年(一九一四)一一月一三日、河内の木綿業者が富田林町の河内木綿同業組合の事務所に会合して、営業不振に対処するために製品を半減することを申し合わせている(『大阪朝日新聞』大正3・12・18)。ところが、第一次世界大戦による好景気は、工業の急速な成長をもたらし、なかでも紡績工業の生産高は、大正八年には三年の五倍以上に達した。このような情勢の中で、七年九月、河内紡織株式会社創立の計画が持ち上がった。「趣意書」(近代Ⅳの四)は、次のように述べている。

数年来我国ニ於ケル斯(し)業ノ趨向(すうこう)ハ、戦後益々発展ノ駸々(しんしん)タルモノアリ、由来本郡ハ、河内木綿ノ主産地トシテ斯界ニ籍甚(せきじん)シ、各所ニ小工場ノ介在スルモノアリト雖(いえど)モ、時代ノ進運ハ現状ノ偸安(とうあん)ヲ許サヾルモノアルヲ常ニ遺憾トスル処ナリ、此時ニ当リ、吾人見ル処アリ、茲(ここ)ニ、河内紡織株式会社ノ設立ヲ企図セントス(中略)

特ニ吾人ノ推奨スル所以(ゆえん)ハ、現時欧乱ノ余威ヲ受ケテ各所ニ群起セル事業会社ハ、概(おおむ)ネ其ノ熱ニカラレ、堅実ナル成算ヲ有セズシテ事業ニ着手スルガ故ニ、往々計画ニ齟齬(そご)ヲ来タス事アリト雖モ、当会社ハ全ク其選ヲ異ニシ、設立ノ日ヨリ何等ノ支障ナク、予算ノ収益ヲ見ル事ヲ得ルハ本会社ノ誇リトスル処ナリ

 設立にあたっては、近い将来、富田林町に本工場を建設し、基礎が固まるのを待って紡績業にも進出するという計画を立て、当面、河内織物製造所を買収して創業することになった。河内織物製造所は、大正五年一一月に北野豊吉が彼方村大字板持に設立したものである(『大阪朝日新聞』大正5・12・3)。河内紡織の資本金は一〇〇万円で、一株五〇円、二万株に分かち、一万七〇〇〇株を発起人・賛成人が引き受け、残り三〇〇〇株を公募することになっていた(前掲「趣意書」)。七年一一月一二日、富田林町堺屋で創立総会が開かれた。出席者は委任状を含めて九九人で、取締役社長に発起人代表の越井醇三を選出し、取締役に佐藤省三・北野豊吉・田守三郎兵衛・北野忠治・仲村信昌・田中俊郎、監査役に橋本忠兵衛・北野武三郎・土井寅市を選出した(近代Ⅳの六「河内紡織株式会社創立総会決議録」)。九年五月、河内紡織は、本社を富田林町大字毛人谷(えびたに)三八〇番地に移転し(『大阪朝日新聞』大正9・5・25)、一一月には、綿糸・綿布の製造販売だけではなく、綿布以外の織物も製造できるように定款を変更している(同11・14)。

 経済が不況に陥ると機業の不振は増大し、一三年になると南河内郡では内地向け小幅木綿などは、原糸その他の生産費材の高騰と販売不振とから採算が取れなくなった。輸出用の天竺木綿や広幅木綿が不振に陥り、小規模工場では運転資金は逼迫し、休止に追い込まれるところも多かった。大工場と目されている河内紡織でも滞貨が増大し、七月以降、喜志分工場を閉鎖して操短を行っている。もっとも、九月に入ると需要が回復に向かい、いくぶん活況を取り戻している(同13・9・18)。

写真77 富田林幼稚園創立者記念写真(大正3年5月。前列左から田守三郎平、5人目越井醇三、7人目佐藤省三、8人目仲村信昌(河内紡織株式会社役員)。富田林銀行出資者の杉本藤平・葛原三治・石田紋次郎の顔も見える。富田林幼稚園所蔵)