明治四四年(一九一一)四月一五日、大阪府は米穀検査規則を制定し、四四年度産米から施行することになった。その要点は、次のとおりである(「大阪府公報」号外、明治四四年四月一五日)。
第一条 本府各郡ニ於テ生産シタル玄米ヲ交付スルトキハ、其ノ交付ヲ為ス者ニ於テ本則ニ拠リ検査ヲ受クヘシ、但シ其ノ交付ヲ受クル者ニ於テ検査ヲ受クルコトヲ得
一俵未満ノ端米ハ検査ヲ受クルヲ要セス
本則ニ於テ交付ト称スルハ小作米納付、売却、譲与、貸与、弁済、担保、寄託等ノ為相手方ニ渡スモノヲ云フ
第三条 検査ハ左ノ事項ニ就キ之ヲ行フ
一、品質 二、乾燥 三、調製 四、容量 五、俵装
第四条 検査ヲ受クヘキ米穀ハ左ノ各号ニ拠ルヘシ
一、乾燥ヲ充分ナラシムルコト
二、粒形ヲ斉一ニシ異形異質ノモノヲ混入セサルコト
三、調製ヲ完全ニシ青米、籾、粃(しいな)、稗、屑米、砕米又ハ土砂塵埃(じんあい)等ヲ除去スルコト
四、一俵ノ容量ハ四斗トスルコト
五、俵装ハ二重俵トスルコト
第六条 普通検査ハ毎年十月一日ヨリ翌年一月末日迄ニ之ヲ行フ
第九条 検査ヲ為シタル産米ハ、合格不合格ノ二種ニ区別ス
公布にあたって大阪府は告諭を発し、規則制定の理由を次のように説明した(同)。
近年兵庫県外二十九県ハ、県事業又ハ同業組合事業トシテ之レカ経営ヲ励行セル為メ、其声価大ニ発揚セルニ、本府産米ハ之レニ反シ益々其声価ヲ失墜セリ、之レヲ自然ニ放任センカ前途救フヘカラサル悲境ニ沈倫(淪)スルナキヲ保セス、是レ今回米穀検査規則ヲ発布セシ所以ニシテ公益上洵(まこと)ニ止ムヲ得サルニ出ツ
綿作が後退し米作が中心となっている大阪府の農業にとって、米価は何よりも重要な問題であった。明治三八年一二月、大阪府会郡部会が「産米検査ニ関スル意見書」を可決して米穀検査法の制定を建議し、三九年、大阪府は大阪府農会に諮問し、その答申を得て予算案に産米検査費を計上したが、府参事会で「産米検査の新事業は有要なるも原案にては不完全なり」として否決された。四二年には南河内郡農会と豊能(とよの)郡農会が産米検査施行の急務を建議し、府会郡部会も再度「産米検査ニ関スル意見書」を可決し、四四年度からの実施を提案した(服部敬『近代地方政治と水利土木』)。ところが四四年二月、米穀検査規則の施行を前にして農事協議会が開かれると、異議を唱えるものが続出し、反対署名を得た陳情書が次々と提出された。反対の理由を、北河内郡各町村有志・三島郡各町村有志・豊能郡各町村長の陳情書は、次のように述べている。
大阪市ノ如キ商工業ノ旺盛ナル大都市ヲ中心トスル大阪府下農業ノ状態ハ、日ニ都会人ノ感化ヲ受ケ又ハ自然ノ発展ニ伴ヒ郡村ノ情意ニ変化ヲ来シ、比較的利益ノ小ナル農業ヲ捨テ商工業ヲ経営スルモノ陸続タリ、為メニ農業者ノ労力漸次減退シ善後策ニ汲々(きゆうきゆう)タル地主尠(すく)ナシトセザルナリ、此時ニ際シ事ハ善美ナルモ多大ノ手数ト費用ヲ要スル産米改良ヲ而(し)カモ命令ヲ以テセラレンカ、啻(ただ)ニ倦農(けんのう)ノ念鬱勃(うつぼつ)タル小作人ヲシテ忽チ転業ノ不幸ヲ見ルノ動機トナリ平地ニ波瀾ヲ起スノ憂ヒヲ招クベク、殊ニ昨四十三年ハ凶作ニシテ小作米未納ノモノモアリ、或ハ一部落挙テ土地ヲ返還セシモノ等一二ニ止ラズ、地主小作間ノ感情和セザルノ今日ニ於テ検米制度ヲ設ケラルルハ不良ノ結果ヲ見ルノ虞(おそれ)アルヲ以テ、暫(しばら)ク実施ヲ延期シ小作者地主間ノ融和ヲ待テ徐々ニ施行セラレタシ
しかし、陳情は、「検査実施に就いては地主と小作人との間に於ける小作米高の苦情を生ずるのは当然なるも、こは素(もと)より覚悟の前にて米質改良せられると同時に価格の騰貴を見るを以て、この利益を地主と小作人が折半して収受するは至当(しとう)といふべく、何れ実施の暁には地主会を開きてこれと協定する方法を指導奨励すべく、故に延期の陳情は之を容るゝの余地なし」(『大阪毎日新聞』明治44・3・26)として却下された。