大正七年(一九一八)八月、シベリア出兵の影響もあって米価が急騰し米騒動が起こった。騒動は農村にも波及し、八月一三日、南河内郡古市町で騒動が発生した。市域でも一六日夜、川西村で村民四〇人余が集まったが、説得を受けて解散し事なきを得た(津田秀夫「『米騒動』の研究史料の紹介」『関西大学文学論集』三〇―四)。その後米価は大正九年に暴落するなど不安定な様相を示したので、政府は一〇年四月、米穀法を制定して米穀の需給調整を図ることになった。同年六月、農商務省は農商務統計報告規則を制定し、市町村長に統計資料の調査報告を義務づけた。大阪府もこれを受けて一二月に府令第九〇号として統計報告規程を制定しているが、その第六条は、「米麦統計調査ハ農商務省令第十九号ニ依ルモノナリト雖、特ニ其ノ基本調査ハ大正十一年ノ事実ニ就キ別ニ定ムル方法ニ依リ之ヲ行フ」と定めており、一一年五月、訓令第一一号をもって米麦基本調査手続を公布した。基本調査を急いだ背景には、「想界ハ渾頓(こんとん)トシテ清濁漲(せいだくみなぎ)リ、階級ノ闘争日ニ増シテ繁ク、地主対小作問題モ亦喧伝(けんでん)セラル、機ノ宜シカラザルヲ窃(ひそか)ニ欸惧(あいぐ)スルトコロアリ」という事情があった(大阪府知事官房『第一回米麦基本調査結果表』)。
この調査による大正一一年の自小作別農家戸数および米作面積は表69・70のとおりである。表69にみられるように、南河内郡では全農家が米作に従事しており、米作の占める地位は高かった。農家戸数中自作の占める割合は、府下では比較的高く、小作の占める割合はやや低い。『明治三十年大阪府南河内郡役所統計書』から算出した比率は、自作が一七・七%、小作が四二・六%、自小作が三九・七%であるから、自小作が大幅に減少し、小作が増え、自作も少し増えている。米の作付面積では、小作地が六四・八%で泉北・豊能(とよの)・泉南郡に次いで低くなっている。しかし、市域の町村別にみると格差があり、富田林町・新堂村などは比率が高く、川西村・東条村などは低くなっている。農家戸数・作付面積とも南河内郡の小作の率は、府下では相対的に低いが、小作の率が自作を大きく上回っており、地主小作関係は重要な問題であったといえる。
農家戸数 | 米作農家戸数 | 米作農家の割合 | |||||||
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自作 | 小作 | 自小作 | 計 | ||||||
戸 | 戸 | % | 戸 | % | 戸 | % | 戸 | % | |
総数 | 85,183 | 17,494 | 21.8 | 45,942 | 57.4 | 16,629 | 20.8 | 80,065 | 94.0 |
大阪市 | 184 | 8 | 6.1 | 119 | 90.2 | 5 | 3.8 | 132 | 71.7 |
堺市 | 320 | 55 | 24.6 | 137 | 61.2 | 32 | 14.3 | 224 | 70.0 |
岸和田市 | 263 | 58 | 22.1 | 130 | 49.4 | 75 | 28.5 | 263 | 100.0 |
西成郡 | 2,490 | 317 | 15.0 | 1,549 | 73.3 | 247 | 11.7 | 2,113 | 84.9 |
東成郡 | 4,723 | 696 | 17.5 | 2,702 | 68.1 | 569 | 14.3 | 3,967 | 84.0 |
三島郡 | 10,738 | 2,141 | 21.9 | 5,326 | 54.4 | 2,322 | 23.7 | 9,789 | 91.2 |
豊能郡 | 6,351 | 1,570 | 25.9 | 3,016 | 49.7 | 1,479 | 24.4 | 6,065 | 95.5 |
泉北郡 | 11,492 | 2,921 | 25.6 | 6,176 | 54.2 | 2,295 | 20.1 | 11,392 | 99.1 |
泉南郡 | 11,140 | 2,672 | 24.5 | 5,382 | 49.3 | 2,866 | 26.2 | 10,920 | 98.0 |
南河内郡 | 13,852 | 3,329 | 24.0 | 7,693 | 55.5 | 2,830 | 20.4 | 13,852 | 100.0 |
中河内郡 | 13,969 | 2,075 | 17.8 | 7,675 | 65.7 | 1,924 | 16.5 | 11,674 | 83.6 |
北河内郡 | 10,669 | 1,652 | 17.1 | 6,037 | 62.4 | 1,985 | 20.5 | 9,674 | 90.7 |
注)大阪府知事官房『第一回米麦基本調査結果表』(大正11年)より作成。
市郡町村 | 自作地 | 小作地 | 合計 | ||
---|---|---|---|---|---|
町 | % | 町 | % | 町 | |
総数 | 14,655.0 | 31.4 | 32,010.7 | 68.6 | 46,665.7 |
大阪市 | 6.6 | 9.7 | 61.5 | 90.3 | 68.1 |
堺市 | 45.7 | 32.9 | 93.4 | 67.1 | 139.1 |
岸和田市 | 46.6 | 34.3 | 89.2 | 65.7 | 135.8 |
西成郡 | 265.2 | 21.6 | 964.3 | 78.4 | 1,229.5 |
東成郡 | 548.4 | 22.8 | 1,860.9 | 77.2 | 2,409.3 |
三島郡 | 2,389.7 | 32.4 | 4,979.5 | 67.6 | 7,369.2 |
豊能郡 | 1,324.0 | 37.9 | 2,165.6 | 62.1 | 3,489.6 |
泉北郡 | 1,890.4 | 38.2 | 3,055.3 | 61.8 | 4,945.7 |
泉南郡 | 2,135.0 | 36.0 | 3,794.4 | 64.0 | 5,929.4 |
南河内郡 | 2,340.6 | 35.2 | 4,314.5 | 64.8 | 6,655.1 |
中河内郡 | 1,758.2 | 26.0 | 5,014.9 | 74.0 | 6,773.1 |
北河内郡 | 1,904.5 | 25.3 | 5,617.2 | 74.7 | 7,521.7 |
富田林町 | 5.1 | 14.9 | 29.1 | 85.1 | 34.2 |
新堂村 | 34.1 | 21.7 | 122.8 | 78.3 | 156.9 |
喜志村 | 56.1 | 39.2 | 87.1 | 60.8 | 143.2 |
大伴村 | 30.2 | 26.9 | 82.3 | 73.1 | 112.5 |
東条村 | 73.2 | 41.6 | 102.9 | 58.4 | 176.1 |
川西村 | 83.9 | 41.8 | 116.7 | 58.2 | 200.6 |
錦郡村 | 42.3 | 30.9 | 94.7 | 69.1 | 137.0 |
彼方村 | 47.8 | 31.0 | 106.6 | 69.0 | 154.4 |
市域小計 | 372.8 | 33.4 | 742.1 | 66.6 | 1,114.9 |
注)大阪府知事官房『第一回米麦基本調査結果表』(大正11年)より作成。
河内では明治初年から地主小作間の紛争がしばしば発生していた。明治七年(一八七四)六月八日、堺県は、紛争の原因は証文交換の手間を厭(いと)い口約束で小作契約をすることにあるとして、小作証書を取り交わすよう通達している。明治一八年に農商務省が行った小作慣行調査の「証書種類」の項には、大阪府は「一定ノ書式ナシ 但口約ハナシ」となっていて、小作証書の普及が著しく進んだようにみえる(「大正元年及明治十八年小作慣行ニ関スル調査資料」『農地制度資料集成』一)。しかし大正一五年(昭和元年)刊行の農林省農務局「大正十年小作慣行調査」(『農地制度資料集成』一)によれば、大阪府下全体の小作契約の締結は、口頭によるもの七六%で契約書によるものは二四%にすぎなかった。市域の町村でも証書によるものは富田林町六分、新堂村三分、喜志村五分、大伴村七分、東条村一分、錦郡村二分、川西村一分、彼方(おちかた)村二分という状況で、富田林町や新堂村は、証書によるものが減少傾向にあった(「大正十年農商務省小作慣行調査書」)。川西村では「小作人ニ於テ小作証書ニ依ルヲ嫌フ風アリ」と記しており、証書が普及しない理由をうかがわせる。証書を交わす場合でも小作期限を明示しているものは少なく、証人を立てないことも多かった。小作慣行の改善すべき点として東条村は、小作契約をなるべく証書によるようにし、保証人を立てて地主小作とも契約を遵守することを挙げているが、大伴村は「契約書ニハ必ズ義務を履行スヘキ旨ヲ記載セルモ其場合ニ至リテハ履行スルコトナシ」と記しており、契約書では小作の台頭を防ぐことが難しかったようである(同)。
『農事調査 大阪府之部』は、明治二〇年ごろの小作人の状況を次のように述べている。
大阪、堺等ノ市街ニ接近セル地方ハ小作人ノ勢頗(すこぶ)ル強シ、蓋(けだし)是等市街ニハ近時各種ノ工場建設セラレ労力ノ需要日ヲ逐ヒテ増加スルヲ以テ、若(もし)地主ノ処置ニシテ己ノ意ニ満タサルトキハ忽(たちま)チ去テ他ニ活路ヲ得ルコト容易ナルカ故ナリ
このような状況に対処するため、明治一八年には、泉南郡佐野町(現泉佐野市)に「地主同盟会」が結成され(大正一三年二月農商務局「本邦ニ於ケル農業団体ニ関スル調査」『農地制度資料集成』三)、丹北郡三宅村(現松原市)に「興農会」が結成されている(『松原市史』五)。これらはいずれも、地主小作の協調をはかろうとする地主組合であった。