対立と協調

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明治三二年(一八九九)は凶作であったが、大伴村大字山中田(やまちゅうだ)では地主と小作が交渉し、いったん妥協が成立したようである。ところが小作人五〇人余が、連署して二人の地主に譲歩を迫った。三三年二月、このような小作に対抗するために、二人の地主を含む地主九人が中心となって地主盟約を結ぶことにした。山中田に少しでも土地を所有し小作させている者はすべて地主と認め、新たに山中田で土地を買い入れる者には盟約書に署名することを求めることとし、盟約書に違反した時は、盟約書履行の訴訟を起こすとともに五〇円の科料を徴収することになった(山中田杉山(三)家文書「盟約書」)。盟約書によれば、今回は次第によっては、地主がすべての小作地を引き上げ、宅地・借家がある時はその明渡しも要求し、事件終了後、改悛(かいしゅん)の情著しい者に対しては詫び書を取って従前どおりの小作を認め、首謀者がわかれば地所・金銭の取引は一切拒否することを決めている。この地主組合は、もはや地主小作の協調を図ろうとするものではない。盟約書は、次のように主張する。

小作米減免請求スル場合ニハ頑固ノ団結ヲ為シ是迠地主ヲ脅迫スル事其数ヲ知ラス、其侭(まま)捨置タル処、今回モ又強請ノ結果幸ニ中(仲)裁スルモノ有之、夫々納米ハセシモノヽ又二三ノ地主ヲ脅迫的団結ヲ以テ後日ノ防(妨)害ヲ加ヘントス(中略)、此侭ニ捨置カンカ今后ノ始末ニ甚タ影響ヲ及ホシ終(つい)ニハ地主ト小作トノ権利相反シ、地主ハ小作人ニ圧側(倒)セラルヽ哉必然ノ事ト存候

 小作は、すでに団結して地主と交渉するようになっており、地主も団結して対抗しなければ小作勢力に圧倒されてしまうという危機感が漂っている。それと同時に、争議の一因を「畢竟(ひっきょう)未開ノ人物多キニヨル」(同)として、「旧来ノ悪弊ヲ改メ将来ノ秩序ヲ保持スル」ために「規約」(山中田杉山(三)家文書)を定めようとした。規約は、賭博や定職なく徘徊する者の取締り、冠婚葬祭・見舞・入営送迎などの倹約、仏教(真宗)信仰の発揚などを申し合わせるとともに、「窃ニ事端ヲ開キ人ヲ煽動シ威赫(嚇)的行動ヲ為スモノハ」「一切ノ融通取引ヲ謝断シ且ツ家屋并ニ敷地ヲモ貸与セサル」ことを定め、巡査駐在所などに目安箱を設置し、賭博・徘徊や悪行をなす者の行動を匿名で警察官に申告させようとしている。

写真79 明治33年「規約」 (杉山家文書)

 日露戦争が始まると、地主と小作の対立は表面化しなくなった。しかし、戦後の急速な工業の発展と都市人口の増大は、労働争議の続発、貧民問題の増大、農村の疲弊と地主小作問題の深化を招き、大きな社会問題となった。このような事態に対処するため、明治四一年一〇月一三日、戊辰詔書が発せられた。その趣旨は、日本が世界列強に伍していくために、国民が一致協力して勤労・倹約・協調に努めることを求めるものであった。これを契機に地方改良運動が展開され、町村基本財産の造成や納税完遂・勤倹貯蓄・農事改良・風紀改善などが強調された。四二年六月、彼方村は「戊申詔書ノ御趣旨ヲ遵奉(じゅんぽう)シ」「健全ナル進歩発達ヲ遂グルヲ以テ目的」とする「彼方村矯風会」を創設した(彼方土井家文書「彼方村矯風会々則」)。会は村長を会長、常設委員・村会議員を幹事とし、信義・情誼(じょうぎ)の尊重、勤倹貯蓄の実行、奢侈(しゃし)・怠業の相互監視、地車挽・盆踊りなどの悪習慣の廃止を奨励するものであった。富田林町においても、農会に町是(ちょうぜ)設定委員を設置し、町是(町政の方針)を起草するとともに、町発展のための町務の研究・調査を行うことになった(富田林勝山家文書「町是設定委員規程」)。

 四二年六月、南河内郡農会総会は地主会の設立を提唱している。その趣旨は次のようなものであった(富田林杉本家文書)。

労働賃金ハ昂騰(こうとう)シ商工業ノ発達ハ田園ノ子弟ヲ都会ニ吸収スルコト多シ、為ニ退イテ身ヲ壟畝(ろうほ)ニ委ネ耒耜(らいし)ヲ以テ生活ノ具ト為スモノ日ニ益々寡ナキノ条アリ、宜ナル哉村ニ良農ナク米ニ良品ナシ、嗚呼(ああ)地ノ利ヲ養護シ耕地ノ荒撫(蕪)ヲ防グベキ任ニアルモノ豈(あに)坐シテ時勢ノ推移ヲ見ルヘケンヤ、苟(いやしく)モ先覚者ヲ以テ任セラルヽモノ須(すべか)ラク起ツテ農ヲ勧メ作人ヲ擁護シ能ク意志ヲ疎通シ産米ノ改良ヲ図リ、以テ相互ノ利益ヲ増進スルハ蓋シ目下ノ急務ナリト信ス

 地主会は当初「南河内郡小作保護会」となっていたが、調査委員会によって「南河内郡農事奨励会」と改められた。会則案によると、会の目的は「作人ヲ保護シ兼テ地主小作間ノ共合利益ヲ増進スル」ことにあり、地主小作間の意志疎通、小作料・小作契約に関する協定、産米の改良などの事業を行うことになっていた(同)。