大正一三年(一九二四)九月八日から一〇日まで、富田林駅前の広場で新民衆劇団の公演が行われた。南河内郡野田村(現堺市)の新文化村に創設された新民衆劇学校の卒業生たちが、この年二月に結成した劇団である。新文化村を創設した倉橋仙太郎(くらはしせんたろう)は、沢田正二郎と共に新国劇を旗揚げしたが、病を得て帰郷し療養していた。新民衆劇学校の校長は沢田であったが、実質的な指導者は倉橋で、映画スターとして活躍する大河内伝次郎(おおこうちでんじろう)は二期生であった(北崎豊二「倉橋仙太郎と新文化村―大阪における『新しき村』運動について―」『近代大阪と部落問題』所収)。富田林公演を主催したワシラノシンブン社は、元『大阪時事新報』の記者で、新文化村に移住した難波英夫が創刊した新聞で、文化運動に力を注いでいた(第四章第三節参照)。公演は午後六時からであったが、観客は初日一五〇〇余人、二日目一八〇〇余人、三日目一三〇〇余人と盛況であった。演目は次のとおりである(『ワシラノシンブン』大正13・9・15)。
初日 山本有三「嬰児(えいじ)殺し」・額田六福「冬木心中」「晩鐘」・西光萬吉「天誅組」
二日目 山本有三「同志の人々」・岡本綺堂「京の友禅」・菊池寛「丸橋忠弥」「乳」
三日目 狂言「文荷」・額田六福「月光の下に」・鈴木泉三郎「治郎吉懺悔」・額田六福「山本勘助」
二日目の午後一時からは、近隣の小学校生徒五年生以上一六〇〇人を無料招待し、狂言「千鳥」・菊池寛「乳」・額田六福「晩鐘」を上演した。予定では額田六福「喜劇山本勘助」を上演することになっていたが、富田林署の許可が得られず、「晩鐘」に変更されたようである(同)。富田林駅前広場の公演跡では、二二・二三両日、朝日部屋稽古連中が主催する大相撲を興行することになった。力士一〇〇人余、素人力士四〇人余が集まり、一二日ごろから稽古を開始した。素人も飛入りで参加するなど早くから賑わったようである(同)。駅前広場は、民衆の娯楽の場でもあったのである。
一三年一〇月、ワシラノシンブン社は、新堂村で社会問題講習会を開く計画を立てた。毎週土曜日に開く予定で、聴講料は一回五銭であった。第一回は一〇月四日に開かれ、細迫兼光(ほそさこかねみつ)が人類社会の歴史、現在の社会制度について説き、第二回は日本農民組合長の杉山元次郎(すぎやまもとじろう)が農民運動の歴史や現状を紹介し(『ワシラノシンブン』大正13・10・1、15)、一四年一月には、秋田雨雀が「芸術家の見たる近代社会思想」、布施辰治が「無産階級運動の根本精神」と題して講演している(同14・1・11)。