明治三四年(一九〇一)二月、古市村(現羽曳野市)に高等女学校を設置する建議が南河内郡通常郡会に提出され、同時に古市村長から敷地寄付願いも提出された。郡会は九人の調査委員を選出して調査を進めたが(山中田杉山(三)家文書「大阪府南河内郡郡会会議録」以下「郡会会議録」と略)、三五年二月の通常郡会で時期尚早として否決した(河南高校所蔵文書『大阪府南河内郡立河南高等女学校新築記念』以下『新築記念』と略)。
三九年四月、富田林高等小学校に裁縫学校が附設された。これは、「本郡ノ如キハ早晩府立或ハ郡立ノ高等女学校設立ヲ要スルヤ素ヨリ論ヲマタズ」「土地遠隔ノタメ市内高等女学校ニ入学スルコト能ハズモノ」(彼方土井家文書「女子技芸学校設置ニ関スル意見書」)のために設けられたものである。しかし、同時に「現今ノ高等女学校ハ唯単ニ女子ノ中等教育ヲ授ケ其品格ヲツクルニ止マリ実地家庭ヲツクルニ際シ其ノ効果少ナク」「単ニ結婚ニ対スル履歴ノ飾リ学問ニ過ギザルハ大ニ女子教育ノタメ遺憾トスルトコロ也」(同)と批判して、「女子ニ必須ナル裁縫手芸ヲ教授シ併セテ家事ニ関スル知識ヲ授ケ貞淑ノ美徳ヲ養フヲ以テ目的」とし、「世話女房的女子ヲツクルハ我校ノ特色也」(明治四二年「裁縫学校入学生徒募集広告」)としていた。修業年限は四年で尋常小学校卒業者を対象とし、高等小学校終業生・卒業生は適宜の学年に編入することができた。教科目は高等女学校技芸専修科に準じ、裁縫手芸を主とし、修身・国語・算術・習字を課し、作法・点茶・生花・唱歌・体操等の授業も行われたようである。別に裁縫研究科が設けられ、年限を定めず学科を課さず、専ら裁縫を教え、珠算・書簡文を教えることもあった(同)。
高等女学校設立を望む声は依然として高く、南河内郡役所は、堺高等女学校などに調査員を派遣するなどして準備を進め、三九年一〇月の臨時郡会に郡立女学校設置を提案した。しかし郡会は「本郡ガ地勢上生徒通学ノ利害甚シク一致セザル所」があり、「今暫(しばら)ク交通機関ノ整備ヲ待ツ必要アリ」という理由でこれを否決した(『新築記念』)。富田林裁縫学校の入学志願者は比較的多かったようであるが、「此等ノ女子ハ完(元)来裁縫校入学ヲ希望セルニアラズ、女学校入学志望者タルモ土地不便ノタメ止ナキニ出タリ、カヽル生徒及父兄ノ心情ヲ察スルニ実ニ同情ノ涙ナキ能ハズ」(「女子技芸学校設置ニ関スル意見書」)という状況にあり、義務教育年限の延長にともなって四三年度からは尋常小学校卒業者も高等女学校に進学できるようになるため「入学志願者頓ニ増加シ、市内各高等女学校ハ市内尋常小学校卒業者ノミニテ予定人員ニ数倍シ、郡部ノモノハ高等小学校卒業生中ニテモ成績優等ナルモノナラデハ到底入学ノ目的ヲ達スルコト能ハズ」(同)と予想された。しかも、北河内郡では四三年度から組合立河北高等女学校を発足させることを決めており、河南高等女学校設立の準備が急がれた。
四二年一月、富田林裁縫学校は、裁縫学校を改廃し、高等小学校の女子をもって富田林女学校を組織する構想を立て「富田林女学校設置ニ関スル調査書類」(富田林勝山家文書)を作成した。富田林高等小学校も、同年三月、女生徒の進路を個別調査して「高等四年女卒業、二・三年女修業後調査一覧表」(同)を作成している。このような準備を進めた富田林裁縫学校は、一二月二〇日、「本校決意スルアリ来年三月ヲ以テ断然附設裁縫校ノ組織ヲ変更シ、高等女学校令ニ準ジコレガ教科ヲ加ヘ、一方技芸科ヲ授ケ、完全ナル地方適切ノ教育ヲ受ケシムルタメ文部省ノ認可ヲ受ケ、女子技芸学校ヲ設立シ実科的女学校トナシ、以テ地方女子教育ノ発展ヲ期セントス」と提言し、「組合会村長並ニ議員諸氏区々ノ(カ)情実ヲサケ、地方ノタメコレカ設置ニツキ奮テ賛同アランコト切望ニタヘザル也」(「女子技芸学校設置ニ関スル意見書」)と訴えた。富田林町外六ヶ村組合はこの提案を受け入れ、四三年七月二五日に女子技芸学校が開校した。「富田林町外六ヶ村組合立女子技芸学校学則」(彼方土井家文書)によれば、修業年限は本科は四年、専修科は六か月ないし二年で、定員は本科二〇〇人、専修科六〇人であった。技芸学校は「技芸ヲ授ケ併セテ普通教育ヲ施ス」ことを目的としており、本科の教科目は修身・国語・算術・地理・理科・歴史・経政・図画・音楽・体操・裁縫・手芸で普通教育に重点を置いている。授業料は年額七円で三期に分けて納めることになっており、組合外から入学する者は九円であった。東条村では三六年度から、有備裁縫学校を設置していたが、技芸学校が発足すると有備小学校の教室不足を理由に四二年度をもって廃止している(富田林市所蔵文書東条村「議事録綴」)。なお、この裁縫学校は、規程によれば修業年限は三年で教科目は裁縫と修身、授業料は村民は月一五銭、他町村からの入学者は倍額となっていた(富田林市所蔵文書 東条村「村会議案議決議事録綴」)。
明治四四年四月、高等女学校令が改正され、「家政ニ関スル学科目ヲ修メムトスル者ノ為」実科高等女学校を設置することが可能になった。南河内郡では、技芸学校を郡立の実科高等女学校に改組する計画を立て、郡長・村長・郡会議員・技芸学校教員ら一〇人からなる女学校設立調査委員を組織して調査、地域間の調整を行い、四五年二月に南河内郡立実科高等女学校設置案を郡会に提出した。郡会の決議を経て文部大臣に出願し、四月一日開校の運びとなり、女子技芸学校は廃止されることになった(『新築記念』)。郡立女学校の設立は郡財政を膨張させ、町村負担金の増大を招くことになる(本章第一節参照)。郡では「積立金設置並ニ管理規程」を改正し、四五年度から積立金一戸五銭を半額に改めて郡民の負担軽減を図っている(富田林杉田家文書「郡会会議録」)。
実科高等女学校は、発足にあたって仮校舎を使用し二年後に新校舎を建築する予定であったが、折柄の不況と財政難で延び延びになっていた。しかし、生徒が増え、校舎も老朽化していたので大正五年(一九一六)二月の郡会に校舎の移転新築案を提案し可決された。建築予算は一万五〇〇〇円で四〇〇〇円を郡費から支出し、富田林町が七〇〇〇円、新堂・川西・東条・彼方・喜志・錦郡の六か村が二〇〇〇円、その他の町村が二〇〇〇円を分担することになった(『新築記念』)。郡では町村の分担金が増えるのを防ぐために五年度・六年度の積立金の蓄積を停止している(千早赤阪村伏井家文書「郡会会議録」)。実際の建築費は五年度の第一期工事費一万二〇〇〇円、六年度第二期工事費一万八七九〇円、七年度二六五六円、八年度九五〇〇円と長期にわたり約四万三〇〇〇円を要した(『新築記念』)。郡は、校舎建築・敷地購入の費用三万八〇三二円を負担することになったが、これを五年度一万三一〇九円、六年度二万四九二三円の継続支出とした。そのために積立金を取り崩し、五年度は三〇〇〇円を、六年度は七九九九円を歳入に繰り入れ、積立金の蓄積停止を八年度まで延長している(千早赤阪村伏井家文書「郡会会議録」)。このように、郡立女学校の設置は、郡や郡内諸町村にとって大きな負担となった。
校舎の新築移転とともに学校の体制も整備され、六年には教育勅語、八年には天皇・皇后の写真(御真影)も下げ渡されたが、八年四月高等女学校に組織を改編し、大阪府南河内郡立河南高等女学校と改称した。さらに九年には実科を廃止し、大阪府河南高等女学校と改称したが、同年一一月、大阪府会は河北・三島・河南の郡立高等女学校を府立に移管することを決議し、一〇年四月一日から府立に移管されて大阪府立河南高等女学校となり、昭和三年(一九二八)四月には大阪府立富田林高等女学校と称するようになった(河南高校所蔵文書「大阪府立富田林高等女学校略沿革」)。