楠公史蹟の荒廃

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歴史上南河内で活躍した人物のうち最も著名な人物は楠木正成(くすのきまさしげ)であろう。富田林市域にも楠氏関係の史蹟は多く、特別に親しまれてきた人物といえるだろう。このような楠氏に対する特別な感情も、過去の顕彰活動の一つの結果といえるが、ことに顕彰が盛んに行われたのは明治三〇年代以降のことであった。とりわけ市域においては大正時代に楠妣庵(なんぴあん)が復興されたことが大きな顕彰活動の画期となっている。ここではやや時代をさかのぼる形で明治以降の楠公顕彰について触れることとしたい。

 明治八年(一八七五)、南河内を訪れた大久保利通は楠公関係の史蹟の荒廃を目の当たりにしてその整備を命じた。近世前期には楠公史蹟の探索、比定や整備はほとんど行われなかった。近世後期以降、国学思想の興隆などに歩を合わせるように、楠公史蹟の研究が少しずつみられるようになり、わずかながら史蹟の整備も進められるようになった。観心寺(河内長野市)の首塚の石柵が寛政五年(一七九三)に整えられ、また弘化二年(一八四五)、その前に大阪の儒者篠崎小竹(しのざきしょうちく)の撰になる碑が建てられたことなどは一例であろう(鈴木潔『楠氏と松尾』)。しかしながら水分村(現千早赤阪村)の正成誕生地をはじめとした多くの史蹟には明治を迎えても何らそれを示す顕彰碑などは建てられていなかったのである。この明治八年の大久保の命を受けて楠公顕彰運動が興起したといわれることが多いが、現実にはそのような動きはあまりみられず、むしろ廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響などを受けて楠氏関係の伝承を持つ小規模な寺社は荒廃へと向かった。