南河内における楠公顕彰が本格化するのは明治三〇年代以降のことである。その背景に日清・日露の戦争を契機とした国民意識の形成が考えられるものの、直接的に関係したのは古社寺保存の動き、南河内における鉄道の整備、そして顕彰会の組織化の三点であったと考えられる。
明治三〇年(一八九七)に制定された「古社寺保存法」によって、我が国の文化財保護はその歩みを開始したが、制定当初よりまず保存の対象とされたのは、南北朝期に大きな役割を果たした社寺であった。観心寺は全国的にも最初に保存が決定され、明治三一年には保存金が下付され、修理が開始されている(『大阪朝日新聞』明治32・2・3)。これに続いて金剛寺(河内長野市)が同様の措置を受けている(『大阪朝日新聞』明治32・1・29)。また修理の前提として古社寺や史蹟の調査も行われ、明治三二年七月には千早城址(千早赤阪村)、赤阪城址(同)、北畠顕家墓(大阪市阿倍野区)などの楠氏関係史蹟が旧跡に、観心寺・金剛寺などが名勝に指定されている(『大阪朝日新聞』明治32・7・5)。同年一〇月には南河内郡の古社寺調査が終了し、誉田(こんだ)八幡宮(羽曳野市)、高貴(こうき)寺(河南町)などとならんで美具久留御魂(みぐくるみたま)神社、龍泉寺などの指定についても国に進達されている(『大阪朝日新聞』明治32・10・24)。
楠公史蹟とされた寺院はいずれも南北朝期をはるかにさかのぼる古い歴史を持つが、密教系の寺院が多く檀家を持たなかったこともあって明治維新以後、その維持に苦しむものも少なくなかった。「古社寺保存法」に基づく指定と保存金の下付、改修工事の実施などはこのような寺社を経済的に補助するとともに、史蹟の整備を促し楠公顕彰の大きな契機となったのである。
楠公顕彰に鉄道の敷設とその営業施策が及ぼした影響も小さくはない。明治三一年に河陽(かよう)鉄道が柏原―富田林間に開通し、後に河南(かなん)鉄道となって三五年には長野まで延長し、すでに三一年に開通していた高野鉄道(現在の南海高野線)に連続することとなった。この両線の開通によって、楠公の史蹟をまわることは容易なものとなり、多くの人々が南河内を訪れるようになった。鉄道会社もパンフレットを発行したり、社寺の祭礼などの際には割引切符を発行して乗客の増大を計ろうとした。
古社寺の保存や鉄道の敷設によって南河内の楠公史蹟への注目が次第にたかまる中、明治三二年には楠氏紀勝会の活動が本格化している。この会は千早城をはじめとする楠公史蹟に記念碑を建てることを大きな目的とする会で、当初は千早村(現千早赤阪村)の中谷長一郎などが発起人となったが、成功しなかった。中谷らは当時の大阪府知事菊池侃二(きくちかんじ)、元知事西村捨三らを千早に招き、両人を中心として会が再発足することとなった。三二年一月二九日には富田林の郡役所議事堂において発足会が行われた(『大阪朝日新聞』明治32・2・1)。楠氏紀勝会は学務委員を通じて寄付金の募集を行い(同2・8)、三六年には富田林―千早城址間の石標を整備し、『楠氏遺蹟志』(服部徹著)を刊行するなど、楠公史蹟の整備や忠君愛国思想の宣伝のために活動した。
また明治三六年には南大伴の勝山孝三が中心となって法憲会が組織されている。この会は楠氏の愛国思想に学ぶことを目的としているが、活動の中心は金剛山頂の整備と観光開発にあった(南大伴勝山家文書 勝山孝三『忠君愛民 国体籏解釈』)。勝山孝三は明治二五年の第二回総選挙、明治三五年の第七回総選挙に出馬した自由党系の活動家であり、すでに明治二五年に「皇室ノ尊栄ヲ保チ、帝国臣民ノ幸福ヲ増進シ、権利ヲ拡張スル」(同「興楠会設立主意書」)ために興楠会という団体を設立している(服部敬「初期議会と撰挙」『花園史学』二二)。勝山にみられるように明治後期から大正にかけての楠公顕彰の風潮の背景には、忠君愛国精神の教育という表面的な目的のほかにも、南河内の観光開発の意図、あるいは党派を超えて楠木正成をシンボル化しようとする政治的な意図などが複雑に交わりながら存在していたといえるだろう。