ここで富田林における楠公顕彰の中心的な役割を担った富田林中学校について少しふれておきたい。明治三二年(一八九九)二月、大阪府知事菊池侃二は臨時府会において「教育一〇ヶ年計画」を提案したが、その中には府下の郡部において中学校三校を設立することが謳われていた。これを受け文部省は同年九月府下第八番目の中学校を明治三四年四月より開校することを認めたが、その建設地として選ばれたのが現在の富田林高等学校が建つ当時の川西村であった(富田林高校『百年史』)。これは前年の明治三一年八月には南河内郡会から中学校設置の建議が出されるなど、以前よりの地元からの強い中学校設立の希望がかなえられたものである。
当時、学校設立の際には学校の敷地を郡が買収して府に寄付することが慣行として行われていた。九月の開校許可からいくばくもたたない明治三二年一二月の郡議会では、学校敷地寄付に伴う補正予算が提案され承認されている。これは土地購入に必要な金額を五〇〇〇円と見積もったものである。歳入は、富田林町よりの三〇〇〇円、これを除く南河内二一か村から一〇〇〇円の寄付金を主要なものとし、残りの一〇〇〇円を南河内二二町村に分賦している(山中田杉山(三)家文書)。このように迅速な南河内郡の措置は、開校の繰上げを意図したもので、これを受け府議会は明治三三年一一月、開校の一年繰上げと、建設に必要な経費の計上を決議した。経費は三三年度一八八七二円一〇銭、三四年度一八三六六円四〇銭、三五年一二一四四円で、三か年にわたる建築計画であった。文部省もこのような府・郡の動きを無視し得ず、開校の一年繰上げを正式に許可している。
校地は川西村甲田に決められ、明治三四年には、校名も大阪府第八中学から大阪府富田林中学校へと改められ、第一期生を迎えることとなった。校名はさらに同年六月一日に大阪府立富田林中学校と改称された。六月一三日には開校式が行われているが、この時、教室では楽団の演奏があり、石川の堤防からは花火が打ち上げられた。また地車が曳かれ、出店が出されるなど、富田林中学校の開校は地域の人々にとっても一大慶事であった。開校式翌日には一般の人にも校舎の見学が許可され、運動会は餅まきまでが行われている。この開校式の費用は三一四円余にものぼったが、その約半分は市町村や地元有志からの寄付金で賄われた(富田林高校『百年史』)。