富田林中学校と楠公顕彰

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楠公関係の史蹟に取り囲まれた富田林における楠公顕彰の風潮は教育にも大きな影響を与えている。明治三四年(一九〇一)に大阪府下八番目の中学校として開校した富田林中学校では「至誠身を修め 自彊(じきよう)事に当り 進では国民の中堅となり 退ては郷党の模範となり 以て聖旨に奉答すべし」という校訓が示された。この校訓は楠公精神をあらわすものとしてその後同校の教育の指標となった。初代校長大里猪熊は学校が所在する南河内周辺に楠公史蹟や陵墓が多いことに感銘し、大里校長の提案で開校年から始められた楠公史蹟、陵墓を巡拝する遠足(当時は修学旅行と呼ばれた)は同校の特色ある行事となった。

 また富田林中学校では明治三七年からは楠公祭が始められている。これは楠木正成の忌日である五月二五日に金剛山に登山し山頂の葛木神社(奈良県御所市)に参拝する行事で当初は有志のみの参加であったが、明治四一年からは全校行事となった。富田林中学校の楠公祭は年々盛んになり、四二年ごろには歩兵第三七聯隊第二中隊や大阪毎日新聞の記者が同行するなど学校を超えた行事となっていった(巻頭白黒口絵参照)。

 さらに富田林中学校の教育を特色づけたものとして菊水(きくすい)文庫の存在が挙げられる。菊水文庫は富田林中学校の校友会が創設した図書館で明治三九年六月一三日の開校記念日に開館している。当時は日露戦争の戦勝を記念して「戦捷(せんしよう)記念菊水文庫」と称した。当時中学校で独立した図書館を持つものはなく菊水文庫は非常に有名な存在となった。その後、大正二年(一九一三)には菊水文庫は学校付属の図書館となっている。菊水文庫では楠公関係の書籍、絵画などの収集を行ったほか、大正五年三月にはその楼上で大正天皇即位を記念した「御大典記念河内旧蹟観」という展覧会が開催されている。また同年九月にも南河内の史料の展覧会が富田林中学校の講堂で催されている。この時には金剛寺、観心寺、叡福寺、国分神社など南河内の諸社寺が所有する古文書や出土遺物が所狭しと展示されたが、ことに注目を集めたのは楠氏関係の史料であった。この展覧会に合わせて一〇月一日には講演会が開かれ、喜田貞吉が「南河内の遺蹟について」、黒板勝美が「南河内の楠家関係文書について」という講演をしている。喜田は当時文部省図書編修官、黒板は東京大学助教授で共に日本を代表する歴史学者であった(富田林高校『八十年史』)。このように富田林中学校が楠公顕彰や研究に果たした役割は非常に大きい。