明治三〇年代以降の楠氏顕彰の動きは全国的なもので、多くの楠氏関係の書物なども刊行されるようになった。楠公関係の史蹟は、地域住民にとって、しだいに地域の歴史を国の歴史に結びつける存在となっていった。同時に史蹟の顕彰や整備が進められる中で、地域や寺社の間でその正当性をめぐる争いが起こることもあった。その一例を甘南備(かんなび)の楠公夫人廟所をめぐる事件にみることとしたい。
南河内と並ぶ楠公顕彰の中心となったのは、楠木正成の戦死地に明治初めに建立された湊川神社(神戸市中央区)であった。明治三八年(一九〇五)、湊川神社では楠木正成の夫人を祀る甘南備神社を境内に建立することとなり、翌年九月二二日には鎮座祭が執行された。甘南備神社という名は夫人が生まれ没した場所が本市域甘南備であったことから命名されている。この鎮座祭に先だって神社では甘南備の地に神霊を迎える奉迎使を差し向けることとなった。甘南備には元来、楠公夫人を祀る楠妣庵が存在したが、明治初期の廃仏毀釈によって廃寺となり、明治一六年には建物も撤去されていた。その跡地は畑となり、一本の柿木だけが目印として残されていたという。この場所に湊川神社の奉迎使は向かったが、地元では神霊を他所に取られるという感情が強く、甘南備の代表者が富田林の旅館に宿泊中の奉迎使に儀式の中止を申し入れることとなった。結局奉迎使は甘南備には入れず、赤阪城址を会場とし、甘南備の方角を向いて神霊の勧請を行うこととなってしまった(『大阪朝日新聞』明治39・9・19、9・23)。
この事件から明治後期の楠氏顕彰の風潮をうかがい知ることができる一方で、他所との対抗意識が一層地域社会における顕彰の感情を鼓舞したことを読み取ることができるだろう。明治三九年一〇月には事件にうながされる形で地元で楠公夫人の古廟地に神社を建立し甘南備と観心寺首塚を結ぶ道路を整備する計画が立案され、早くも一二月には甘南備神社が造営されている(同10・8、12・8)。