甘南備の地には近世には楠妣庵という観音堂があり、地元の旧家松尾家がこれを管理していた。享保五年(一七二〇)の「寺社御改帳」には「正成後室の庵」と記されているので、近世には楠公夫人を祀る堂という性格を持っていたものと思われる。堂は梁行二間、桁(けた)行二間半で、同じ大きさの庫裏が付属していた。この観音堂は先にも述べたとおりに明治六年(一八七三)に廃寺となり、建物もその後撤去されている(鈴木潔『楠氏と松尾』)。甘南備では明治三九年の湊川神社への神霊の移動を契機として、楠公夫人の遺跡顕彰が大きく盛上がりをみせた。楠公夫人とは正成の妻久子のことで、正成の死ののち子正行らを厳しく教育した逸話によって戦前には女性の鑑とされ多くの書物に取り上げられた。佐藤信淵(さとうのぶひろ)の再評価に努めた著名な農政史家織田完之(おだかんし)は、晩年には平将門や楠氏などの顕彰活動を盛んに行っているが、大正四年(一九一五)には甘南備を訪れ、この時に現在楠妣庵境内にある楠公夫人の墓碑(一石五輪塔)を発見したといわれている。同年、岐阜県出身の加藤鎮之助(かとうしずのすけ)は楠妣庵跡地を購入し、六年には庵室および観音堂を建立した。建物の設計には当時第一級の建築家伊東忠太があたっている。伊東は東京築地(つきじ)の本願寺の建築で著名であるが、建築史の研究でも知られ古社寺保存会の委員なども務めている。庵室、観音堂は南北朝期の建築様式を模したものといわれている(『楠妣庵概史』)。大正六年五月には当時の皇太子(後の昭和天皇)が訪れるなど、楠妣庵は本市における楠公顕彰の代表的な場所となっていった。