昭和と改元

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『大阪時事新報』大正一五年(一九二六)一二月二二日付に、「聖上御不例」により、富田林・長野・黒山・柏原の各警察署が忘年会と新年会を遠慮することにした、との記事が掲載された。三日後の一二月二五日に、大正天皇が亡くなって、昭和と改元された。昭和元年は年末のあわただしさのうちに、わずか一週間で過ぎ去り、昭和二年となった。二年三月、金融恐慌が発生して当時の日本資本主義の脆弱性を露呈し、次いで昭和五年(一九三〇)の世界恐慌の来襲によって、日本経済は最悪の事態におちいった。深刻な不況が進行する中で、六年九月に満州事変が起こり、日本は戦時体制へと移行していった。柳条湖事件に始まる満州事変は、日中全面戦争から太平洋戦争へと突入し、ついに破局に至る一五年戦争の序幕となった。

 昭和初期の富田林市域には、富田林町・新堂村・喜志村・大伴村・川西村・錦郡村・彼方(おちかた)村・東条村の一町七村があった。このうち東条村を除く一町六村が、太平洋戦争下の昭和一七年四月に合併して新しい富田林町となった。この新しい富田林町は、戦後の昭和二五年四月に市制を実施して富田林市となった。三二年一月には、東条村が富田林市に編入合併して、現在の富田林市域が定まった。

 第一次世界大戦後の大正九年一〇月に実施された最初の国勢調査によると、富田林市域一町七村の人口は、一万九三三六人であった。一〇年後の昭和五年の国勢調査では、二万一〇六四人であったから、この間に富田林市域の町村の人口は、一・〇九倍、一七二八人増加しただけであった。富田林町の人口は大正九年に三六一八人、昭和五年に四四七〇人であったから、この間に八五二人増加していて、富田林市域全体の増加人口の五割近くを占めていた。富田林町を除く富田林市域の村々の人口は、大正中期から昭和初期にかけてさほど増加することはなかった。ところで、昭和五年における東条村を除く富田林市域一町六村の人口は一万九二〇二人であった。一五年には一・一六倍の二万二一八九人となり、一町六村合併後の一八年の新しい富田林町の人口は二万二九六三人、一九年二万二九四七人と推移したが、二〇年になって三万二二九一人と激増した。東条村においても、一五年の人口は一八四六人であったのに対して、二一年には二四五一人に増加していた。太平洋戦争末期の空襲による都市の壊滅が、農山村的色彩の強かった当時の富田林市域の町村の人口を急激に増加させたのであった。

 大正末から昭和初期にかけて、富田林市域の町村の交通の便はしだいに良くなっていた。大阪鉄道(大鉄、昭和一八年に関西急行鉄道に合併、現近鉄南大阪線・長野線)が道明寺から布忍(ぬのせ)に延長線を敷設し、さらに大阪天王寺(現阿部野橋)まで延ばして、道明寺と大阪天王寺間の電車運転を開始したのは大正一二年であり、翌一三年には在来線の柏原と長野間も電化された。昭和三年には、古市と久米寺(現橿原神宮前)を結ぶ大和延長線の完成(四年三月)に先だって、道明寺と古市間の複線運転が開始された。大阪鉄道の拡張と電化によって、富田林と大阪阿部野橋とが、四四分で結ばれることになった。大阪市と直結された鉄道の便が、南河内の中心都市として発展してきた富田林町の人口をさらに増加させたものと考えてよい。

 昭和三年の『大鉄電車沿線名所案内』には、「近時富田林の膨張」と記され、隣接する新堂村は竹簾(たけすだれ)の生産地として著しく発展していて、「今や両町村合併の機運に向かっている」と書かれていた。昭和五年(一九三〇)の国勢調査による新堂村の人口は三八五九人で、富田林市域の他の村々よりほぼ一五〇〇人から二〇〇〇人多く、富田林町に次いで二番目であった。前掲の「沿線名所案内」には、富田林駅発送の主要貨物として、木材・綿布・雑貨・竹製品・米穀・人造真珠が挙げられている。富田林の官公庁として、富田林警察署・富田林郵便局・堺区裁判所富田林出張所・富田林税務署が挙げられ、金融機関として富田林銀行・国分銀行支店・金剛無尽株式会社の名が記されている。ほかに河内紡織株式会社などの工場や各科医院名、主な旅館料亭の名が挙げられていた。

 なお、富田林市域のバス路線についてみると、大正一五年三月に大鉄喜志駅と春日を結ぶ太子口乗合が開業し、同年四月に金剛乗合が富田林町毛人谷(えびたに)と千早村間の運行を開始した。昭和四年には不動乗合が開業し、彼方村と東条村を結んで運行した。乗合自動車の車種は、二八年式または二九年式フォードで、定員は五人ないし六人程度であった。