昭和三年(一九二八)一一月六日の朝、即位式挙行のため東京を発(た)った昭和天皇と皇后は、その日名古屋に一泊し、翌七日午後二時に京都に着いた。東京出発の日の早暁には、宮中温明殿(うんめいでん)において「賢所(かしこどころ)(神器の鏡)渡御(とぎょ)の儀」が執行され、七日夕刻には京都御所春興殿への「賢所渡御の儀」が執り行われた。神器を奉じての京都行幸の儀に始まり、一〇日の即位式、一四日大嘗祭(だいじょうさい)、一六、一七日の大饗(たいきょう)(大饗宴)、二〇日伊勢神宮参拝、二六日東京還幸、三〇日宮中皇霊殿参拝と続いた一連の儀式が、いわゆる「御大典(ごたいてん)」であった。
「御大典」期間中、とくに即位式から大饗宴が終わるまでの数日間は、各地で祝賀行事が催され、日本中がお祭り気分に満ちた。大日本帝国の基盤が築かれた明治天皇の時代四五年に比べて、一五年と短かった大正時代のあと、慢性的不況の中で迎えた若くて英邁(えいまい)な新しい天皇の時代に、国民の多くが日本の明るい将来を期待した。
京都行幸前日の五日には、横須賀第二艦隊の巡洋戦艦金剛・比叡以下三三隻が、即位式の警備と儀礼のために大阪港に続々と入港して府知事の歓迎を受けた。翌六日、大阪市内では「御大典」第一日に合わせて、新築なった四ツ橋の渡初式が挙行され、日の丸の小旗を手にした幼稚園児と小学児童約五〇〇〇人が行幸を祝った。夜になると中之島一帯が祝賀のために取り付けられたイルミネーションに浮かび上がり、「大礼」期間に入ったことを告げた。
即位式当日の一一月一〇日には、午前一一時前後から、大阪府内市町村役場または小学校において、高齢者への「天杯(てんぱい)授与式」が行われ、下賜(かし)された杯と酒肴(しゅこう)料が各市区町村長の手によって渡された。この日大阪市内は、大阪城大手前や中之島公園から溢れ出た三〇万の学校生徒、青年団、各有志団体などの旗行列や見物人で賑わい、夜には提灯行列で埋まった。昭和三年一一月一二日付『大阪朝日新聞』は、「歓びの街に渦まいた人波 大阪始つての物凄い人出 はちきれる市電、溢れるバス いづれも創業以来の乗客記録」と報じた。
富田林市域の町村の小学校でも、即位式当日に祝賀式が挙行され、旗行列が行われた。喜志小学校の「沿革誌」には、「今上(きんじよう)天皇御即位礼祝賀式挙行後、旗行列で氏神に参拝す」と記されている。彼方小学校では、即位式前日の九日に、高等科児童が楠妣庵(なんぴあん)における即位記念の植林作業に従事し、一〇日には村民合同の祝賀式挙行後、記念植樹が校庭および村社春日神社で行われた。新堂小学校でも、即位式当日に児童と村民による祝賀式が挙行され、一五日に職員・児童の旗行列と氏神参拝が実施された。
一五日付『大阪朝日新聞』は、「祭政一致、至高の大祀を聖上暁かけて御親祭」と記し、一四日夕刻から一五日払暁にかけて執行された大嘗祭の模様を紙面いっぱいに報じた。一四日と一六日は、官庁や学校が休みとなり、会社や商店も「御大典」祝賀で休業するところが多かった。一七日までの四日間、大阪市内は祝賀踊りに興ずる市民と、郡部からの人出でごった返した。一五日と一七日付の『大阪朝日新聞』は、「大繁昌の各郊外電車」「増発につぐ増発」「大軌、大鉄もそれ/゛\一万乃至三万五千人といふ数字を示した」と記している。この期間中、富田林町の堺筋でも、堤灯行列や祝賀踊りなど、町民による各種の催しがあって、賑やかな日が続いた。
大饗宴第一日の一六日には、府知事の人選による「地方賜饌(しせん)」が天王寺公園で開かれ、「千百余名」の府民が「お召し」の栄に与(あず)かった。彼方小学校「沿革誌」の一一月一六日には、「本校々長深瀬直利大饗第一日地方賜饌ニ召サレ参列ス」と記されている。「御大典」は、大日本帝国憲法下の国家体制を、晴れやかに演出した実に大きな国民的行事であった。なお、富田林中学校では、「御大典」記念事業として、プールの建造と植林が実施された。長さ五〇メートル幅二〇メートルの記念プールは、昭和四年八月に完工した。本体工費は、七九〇〇円であった。植林は、天見村(現河内長野市)の地蔵寺の山林を借りて実施された。造林計画初年度昭和三年の記念植林は、檜(ひのき)苗一万五三七五本、杉苗八三七五本であった。