大正から昭和にかけて、慢性的不況に苦しんでいた日本経済は、昭和五年(一九三〇)の世界恐慌の来襲によって最悪の事態に追い込まれた。とくにそのしわ寄せは、農業にもっとも強くあらわれて、五年以降の農村は農業危機とか農業恐慌とよばれるような激しい窮状におちいった。
表77は、昭和初年における南河内郡の米の収穫高とその価額を『大阪府統計書』から抜き出し、一石当たりの米価を算出したものである。昭和三年の南河内郡の一石当たりの米価は二八円八七銭、四年には二八円六六銭だったが、五年にはいっきょに一九円六二銭まで下がり、六年にはさらに一七円三四銭に低落した。
年次 | 収穫高 | 価額 | 1石当たりの米価 |
---|---|---|---|
石 | 円 | 円 銭 | |
昭和2 | 161,247 | 4,626,469 | 28.69 |
3 | 161,087 | 4,650,874 | 28.87 |
4 | 160,527 | 4,600,075 | 28.66 |
5 | 176,325 | 3,460,011 | 19.62 |
6 | 146,868 | 2,546,624 | 17.34 |
7 | 154,688 | 3,230,796 | 20.89 |
8 | 174,177 | 3,769,407 | 21.64 |
9 | 139,271 | 3,937,378 | 28.27 |
10 | 151,477 | 4,490,514 | 29.64 |
注)『大阪府統計書』から作成。
南河内郡の昭和二年から四年までの三年間における米の作付面積と収穫高の平均をそれぞれ一〇〇とすると、昭和五年の作付面積が九七・八とやや減少しているのに対して、収穫高は一〇九・六と増加していて、昭和五年が例年にない豊作だったことがわかる。この年は全国的にも大変な豊作であった。この豊作と恐慌とが相乗作用を起こして米価が暴落し、「豊作飢饉」とよばれる状況を招いた。
翌六年は前年とは対照的な凶作だったにもかかわらず米価は下がり、農業恐慌はますます深刻なものとなった。満州事変後の軍需工業の活況によって、工業面での景気は回復する傾向を示したが、農業面での回復は遅々として進まなかった。農業と工業の不均衡は、農工間の鋏(さ)状価格差(シェーレ)をいっそう拡大し、農民は農作物を安く売って、肥料や農具、一般消費物を高く買わなければならなかった。
昭和八年の「東条村事務報告」(東条村「議事之綴」)によると、総戸数三三七戸のうち、農業三〇〇、工業四、商業七、公務および自由業三、その他二三となっていて、ほぼ九割が農家という状況だったから、農業恐慌は村民の所得に直接跳ね返るかたちとなった。表78は、東条村の特別税戸数割額の推移を示したものである。特別税戸数割は、村税の中でもっとも大きな比重を占めていて、たとえば、昭和三年度の特別税戸数割八七六八円四四銭は、同年度の村税額一万三五五四円八八銭の六四・七%に当たっていた(表79)。特別税戸数割は、大正一五年(一九二六)に改正公布された地方税に関する法律によって、市町村の独立税とされたものである。大正一五年度までの市町村の税収入は、ほとんどが国税や府税の付加税によるものだったが、昭和二年度からは独立税としての戸数割が市町村の中心的な税目となった。戸数割は、納税義務者の所得と資産を算定し、それぞれの担税能力に応じて賦課されるものだったから、戸数割の税額の推移は、村民の所得や資産の増減と結びついていた。
年度 | 特別税戸数割額 | 昭和2年を100とした指数 |
---|---|---|
円 銭 | ||
昭和2 | 9,873.84 | 100 |
3 | 8,768.44 | 89 |
4 | 10,180.63 | 103 |
7 | 6,232.96 | 63 |
8 | 5,007.65 | 51 |
9 | 5,296.61 | 54 |
10 | 5,295.19 | 54 |
注)「東条村歳入歳出決算書」(「議事書類綴」「議事之綴」)から作成。昭和5年度と6年度は不明。
年度 | A村税 | B特別税戸数割額 | B/A×100 |
---|---|---|---|
円 銭 | 円 銭 | ||
昭和2 | 14,136.00 | 9,873.84 | 69.8 |
3 | 13,554.88 | 8,768.44 | 64.7 |
4 | 14,992.45 | 10,180.63 | 67.9 |
7 | 10,427.31 | 6,232.96 | 59.8 |
8 | 9,149.05 | 5,007.65 | 54.7 |
9 | 9,635.54 | 5,296.61 | 55.0 |
10 | 10,080.02 | 5,295.19 | 52.5 |
11 | 10,557.40 | 5,522.68 | 52.3 |
注)「東条村歳入歳出決算書」から作成。昭和5年度と6年度は不明。
表78に示したように東条村の特別税戸数割額は、昭和二年度を一〇〇とすると四年度には一〇三であったが、七年度には六三、八年度五一、九年度五四となっていて四割から五割減少していた。不況下の村民の資力の低下が戸数割額を著しく減らし、それが七年度、八年度、九年度における東条村の村税額を減少させていた(表79)。
大都市に近い大阪府内の東条村は、東北農村のような絶望的状況には至らなかったが、農業恐慌は村民の生活を確実に圧迫していたのである。