昭和七年(一九三二)六月一日・二日の両日、大阪府立実業会館において、第三〇回関西二府一七県農会役職員協議会が開催された。この農会役職員協議会では、「窮乏の農村を匡救(きようきゆう)」するための「恒久的更生策の樹立」が検討され、兵庫県農会から提出された「農村自力更生の挙国運動促進」に関する議案が決議された。次いで、同月七日・八日の両日、東京丸の内の帝国農会事務所で開かれた全国農会長会議でも、「農村の自力更生」が決議された。この二つの会議を経て、「自力更生」のスローガンは全国的に広まり、政府もまたこれを積極的に取り上げた。同年九月には、農林省に経済更生部が新設された。
大阪府では、府の農務課が経済更生運動の担当課となって、府内各町村の更生運動の推進を指導した。大阪府の「農村経済更生要綱」(昭和七年九月)は、精勤主義・共同主義・節約主義を自力更生精神作興のための三つの柱としたうえで、それらに対応する具体的目標として生産増加・共存共栄・消費節約を掲げ、この目標達成のための具体的項目を実行することによって、経済生活の安定が実現できるとしていた。伝統的な農民精神の結集と隣保共助によって、疲弊した農村を自力で更生させようというのであった。
経済更生のためには、まず村民の精神更生が必要とされたが、農村不況の救済のためには、いくらかの予算面での裏付けもあった。昭和七年九月一四日の大阪府の臨時府会で時局匡救に関する追加予算が可決承認された。その主な経費は、救療施設二万二〇〇〇余円、農村振興土木事業八一万余円、農漁山村臨時施設四五万二〇〇〇余円、地方改善一〇万三〇〇〇円であった。
昭和七年度の東条村村会会議録には、同年九月の大阪府の「指示及注意事項」と題する文書が綴じられていて、指示項目の中に「農村不況打開策ニ関スル件」があり、注意項目に「農村振興ニ関スル土木事業ニ関スル件」がみられる(東条村「議事書類綴」)。大阪府は、府内各町村に通達したこの文書で、国庫補助を受けて行う農村救済事業を「地方経済ノ賑潤」に役立つようつとめるとともに、各町村が主体となって、有効かつ迅速に実施するよう求めていた。
七年の新堂村高井村長の日誌には、九月一七日に「二十日、大阪府ノ大手前女学校ニ於テ農林土木事業協議会」開催、助役出席の予定とあり、二一日に「農村振興補助道路費二一〇〇円ノ通知」と記されている。一〇月一九日には、「農村振興道路ノ予算ノ件」により、助役「土木署へ出向」とある(新堂高井家文書)。東条村では、八年度に農村振興土木事業として尾尻から蒲(がま)に至る村道開設事業を実施しており、富田林町では同年度に「町村道毛人谷北線」の拡張工事を行っている。富田林町の町会会議録を見ると、八年八月二八日の町会に、農村振興土木事業費の補助申請に関する議案が提出されていて、八年度に実施する町村道改修工事費の補助を大阪府に申請することが決議されていた。そして同日の町会で、時局匡救のために実施する町村道改修工事の費用のうち、現場で支払う賃金などの経費については、業者に資金の前渡しをすることが決められていた。不況下の農家経済の救済を目的とした土木事業で、賃金の支払いが遅れることのないよう配慮されていたのである。こうして、市域の町村でも、農村振興のための土木事業が実施されたが、その費用は府や国の補助金だけでは賄えず、富裕な村民からの寄付金を加えて実施された。