経済更生運動実施初年度の昭和七年(一九三二)に、大阪府では一町一三村が経済更生村に指定された。南河内郡では、喜志村と磯長(しなが)村(現太子町)が指定を受けた。この指定を受けると、府から助成金が交付され、村長を会長とする経済更生委員会が組織され、この委員会を中心に学校、在郷軍人会、青年団、婦人会など、あらゆる機関を動員し、村の総力を傾けて更生計画が実施されることになっていた。
喜志村の更生計画は、「耕地拡張」「授産」「農業経営組織ノ複雑化」「生産ノ改良増収」「経済行為ノ是正」「自給自足ノ拡充」「教育教化」「社会教化」の八項目を柱としていた。このうち、まず力が入れられたのは、村民の精神作興を目的とした教化活動であった。経済更生委員会教化部長となった喜志小学校長を中心に、学校職員・生徒児童・青年団・軍人会・処女会・婦人会などが実行主体となって計画を推進した。具体的には、祝祭日における国旗掲揚の励行、月二回の神社参拝、道路や神社境内の清掃奉仕、郷土教育などが行われた。これによって、国家観念を強化し、犠牲心や隣保相助の精神を養おうというのであった。「社会教化」の中心は、「虚礼廃止ト冗費ノ節約」であり、実行機関は村および区、産業組合、緊縮委員であった。
計画第一年から第二年には、「生産ノ改良増収」「経済行為ノ是正」に力が注がれた。「生産ノ改良増収」計画は、第二年度実施予定の「農業経営組織ノ複雑化」と対のかたちをなすもので、とくに蔬菜(そさい)栽培の励行と増収、養豚や養鶏の奨励といった多角的経営に力点をおいて、農家経済の立て直しを図ろうとするものであった。「経済行為ノ是正」計画は、「自給自足ノ拡充」と対をなしていて、醤油・肥料・藁(わら)製品などの村内自給の拡充を図るとともに、肥料・日用品などの共同購入と農作物の共同販売の徹底化を通して、増収を実現しようというのであった。これらの計画の実行機関は、産業組合・農会・農事実行組合であり、とくに農事実行組合の増設と活動の充実に力が入れられた。
喜志村の更生計画が四年目に入った昭和一〇年五月、大阪府経済更生委員会の視察が実施され、県忍(あがたしのぶ)府知事・大阪府農務課長ら一二人が同村を訪れた。二九日午前中に、村内各施設や工場などの視察が行われ、午後から小学校講堂において喜志村経済更生委員らと座談会が開かれた。当日の視察順序は、産業組合、共同作業場、農業倉庫、塩谷メリヤス靴下工場、森田ミシン掛工場、農業振興土木事業道路(喜志村停車場平線)、宮農事実行組合、宮籐(とう)細工製造工場、粟ヶ池堤防改築工事、稲作集団指導地、金沢光珠製造工場、明尊寺託児所、石川の流作地、石川家禽(かきん)園であった。
一〇年七月の『大阪府農村経済更生概要』には、この時の視察記録が収められていて、「村勢ノ概観」として次のように記されている。
喜志村ハ南河内郡ノ平野ニアル府下ノ代表的農村デアル。戸数四百二十八戸人口二千三百十七人、耕地百九十余町歩、農産物ハ米麦ノ外、特産物トシテ一寸蚕豆(そらまめ)及豌豆(えんどう)ガアリ、又西瓜、里芋ノ生産モ相当ニアル。何分耕地ハ農家一戸当六反四畝ノ僅少デアル為、自然ニ各種ノ手工業ガ村内ニ発達シ、之等ノ為村民ノ経済ハ決シテ悪イ方デハナイ様ニ見エルガ、ソレデモ調査ノ結果ハ全村ノ収支ハ赤字トナリ、負債ノ超過額モ二万四千円トナツテ居ル。
右の文中の「各種ノ手工業」とは、ミシン掛け、籐細工、メリヤス靴下および軍手の製造であった。これらの仕事には、農家の女性が家計補助の手内職として従事しており、多少の現金収入もあったが、農家の多くは負債を抱えている状態だというのであった。
同視察記によると、喜志村の産業組合は大正一五年(一九二六)に共同作業場を設置していて、精米機・籾摺(もみすり)機・麦摺機・豆粕(まめかす)粉砕機・肥料粉砕機・製粉機などを備え、肥料配合所を持っていた。組合の付帯事業として、養鶏の奨励、託児所の助成、氏神朝参会の奨励、巡回文庫、組合嘱託の助産婦派遣などが従来から行われてきた。ところが、これらの事業や設備の利用度が低いため、十分な成果を上げていないというのである。村経済の立て直しのためには、「経済更生ノ中枢機関」たる産業組合の活動がさらに活発化され、「組合員ノ組合ニ対スル信頼ヲ高ムル」よう事業の刷新が望まれるとされていた。
「村農会ノ事業」については、増産・増収のため努力されている旨の記述がみられる。更生計画二年目から実施された農業経営多角化のための蔬菜栽培の奨励について、「葱頭(たまねぎ)、馬鈴薯、茄子(なす)、大根、蕃茄(ばんか)、葉菜類等ノ栽培ヲ奨励シタ為メ七年度ニ比シ八年度ハ之等ノ作付地ガ合計デ九町一反歩増加ヲ見テヰル」とあり、産業基礎団体としての農事実行組合については、「既設六組合ノ外新ニ三組合ヲ設置シ、予定通リ各部落ニ普及スルコトトナリ」「豌豆、蚕豆、果物等共同販売、優良農具ノ利用、肥料其他ノ共同購入、下肥共同貯蔵、貯蓄ノ奨励等ニ見ルベキ実績ヲ示シテ居ルノハ結構ナ事デアル」と記されている。なかでもこの時の視察対象であった宮農事実行組合は、「五十三名ノ組合員ガ役員ノ指導ノ儘(まま)ニ渾然一致シテ好成績」を上げていた。宮農事実行組合のような大字単位での農家の組織化は、帝国農会・郡市農会・町村農会といったいわゆる系統農会の上からの指導のもとに進められ、経済更生運動推進のうえで重要な役割を果たした。