『昭和三年富田林町勢一覧』は、当時の富田林町の様子を伝える大切な資料の一つである。この町勢一覧は、B四判を横に二枚つなぎ合わせた大きさの紙に謄写印刷したもので、富田林町の人口、財政、交通、教育、兵事、産業などに関する統計が表やグラフで示されている。付図としてB四判謄写刷の「富田林町全図」(縮尺六〇〇〇分の一)が付けられている。この地図には、昭和三年(一九二八)一月五日の日付があり、警察署・税務署・登記所・郵便局・町役場・元郡役所・公設市場・銀行などの所在地が記されている。大鉄線(現近鉄線)の西の方には、河内紡績会社の大きな建物と河南高等女学校(昭和三年三月三一日、富田林高等女学校と改称)があるほかは、ほとんど田んぼばかりである。丘陵の上の方まで住宅が立ち並んでいる今とは、隔世の感がある。学校前駅(現富田林西口駅)の南東にも田んぼが広がり、その中に富田林小学校が建っていた。
町勢一覧の交通の項目を見ると、車の数が「乗用」と「荷積」に区分して記されている。自動車は、「乗用」が三台あるだけであった。自転車は三九四台、人力車が九台あり、「荷積」として馬車二台、牛車三台、荷車が一七五台あった。荷物の運搬には、牛や馬を使うほかは、ほとんど人力に頼っていたのである。「警備」の項には、消防手三八人、自動ガソリンポンプ一台、手動ポンプ一台、防火用水溜一二か所とある。役場の吏員は、町長の下に助役二人(一人は名誉職、一人は有給)、収入役一人、書記四人、雇員一人の計九人であった。
五年後の昭和八年の「富田林町事務報告」を見ると、役場内の吏員数は町長以下九人で従来と変わらないが、この年二月に町営の公益質屋が開業していて、ここに事務員一人、鑑定人一人の計二人の吏員が新たに置かれたことがわかる。公益質屋の設置について、七年の事務報告は、「経済界ノ不況其ノ極ニ達シ、就中(なかんずく)地方農業者及小商工業者ノ窮乏益々加ハリ、其ノ生活年ト共ニ困難ナルニ至レリ」「加フルニ本町ノ如キ銀行ノ閉止以来、一般ノ金融硬塞枯渇シ」「庶民ノ収入ヲ減シ、生活ノ不安愈々(いよいよ)深刻ニナリツツアリ」「之カ打開策トシテ」、昭和六年暮れから事業計画が進められたと記している。公益質屋は、七年一二月に起債の許可を受け、政府低利資金二万一五〇〇円に町費一五〇〇円を加えた総額二万三〇〇〇円を資金として設置された。このほか、七年中に塵芥焼却場の新設工事が実施され、八年には上水道敷設のための準備が進められた。七年の事務報告は、塵芥の処理について次のように記している。
本町内ニ生ズル塵芥ハ極メテ多量ニシテ、之ガ処理ニ衛生人夫ヲシテ日々各戸ヨリ生ズル塵芥ヲ蒐集(しゆうしゆう)セシメ、石川沿岸ニ投棄セシ処、堆積量倍々増加シ衛生上ヨリモ此儘(このまま)ニナシ置ク能ハズ。依テ昨年隣村新堂村大字新堂ニ於テ上地ヲ借入レ、焼却場ヲ新設スルコトニ決シ、本年一月六日許可ヲ受ケ工事ニ着手セリ。
南河内の政治、経済の中心地であり、人口の多い富田林町では、年々塵芥量が増加していて、これまでのような石川沿岸への投棄では処理しきれない状態になっていたのである。八年の事務報告には、昨年焼却場を「新築シ多量ノ塵芥焼却ナシ居レリ」「塵芥処理上遺憾ナカラシム」と記されている。同年の事務報告の「勧業事務」の記載を見ると、「商業ハ本町総戸数ノ三分ヲ占メ居リ、近年打続ケル一般的不況ニ悩ミ居リシモ、当局ニ於テ之ガ匡救ニ努力セシ結果、旧ニ挽回シツヽアリ」と記されている。七年には、「其不振甚シ」と述べられていたから、八年になって商業面の景気がやや回復しつつあると考えられていたことがわかる。「税務会計事務」についての八年の記述には、「一昨年来ヨリ多少ノ滞納者ヲ出シタルハ遺憾トスル所ナリ」としつつも、国税の滞納額は「昨年ヨリ三百余円ノ減額ヲ見タリ、府税並ニ町税ニ於テモ国税同様半減又ハ七分ノ一ニ減少」とあり、「誠ニ良好ナル功績」と書かれている。八年一二月には、富田林財務出張所の府職員立ち会いのもとに、府税の「逋税(ほぜい)者(脱税者)」の一斉検挙が実施された。その結果は、「自転車無鑑札ナシ、府税営業税ナシ、雑車無鑑札一件、女給税一件」という「上成績」であった。昭和六年、七年の不況のどん底期に、十数年来の富田林町の国税「完納ノ実績」は崩れたが、八年には、国税・府税ともに収納状況が好転したのである。ところで、八年の事務報告は、「警備」の項に、「消防組ノ定員ハ三十八名(内、組頭一名小頭四名)、消防器具ハ瓦斯倫喞筒(ガソリンポンプ)二台、腕用喞筒一台」と書いたあと、「八年度ニ着工セントスル上水道完成ノ上ハ防火ニ完璧ヲ期スベシ」と記していた。この年富田林町は、臨時歳出として上水道敷設調査費一〇〇〇円を支出し(表76)、数年来の懸案であった上水道敷設事業にとりかかった。