「富田林町上水道敷設」の議案が町会で可決されたのは、昭和八年(一九三三)九月二九日であった。同議案には、「本町発展ノ状勢ニ鑑(かんが)ミ飲料水ノ改善ト防火設備ノタメ上水道ヲ敷設スルモノトス」とあり、理由書に次のように記されていた。
本町ハ南河内郡ノ中央ニ位シ、道路四通発達シ、大阪市ニ起点ヲ有スル大阪鉄道ハ本町ノ中央ヲ南北ニ貫通シ遠ク長野町ヲ経テ和歌山市ニ通ス。本町内ニ一駅一停留所ヲ有シ交通便ニシテ、府立中学校女学校ヲ始メ各官衙(かんが)所在シ、商工業盛ニシテ南河ノ枢要ナル一都市タリ。加之西ニ羽曳野山脈ヲ控ヘ、東南ニ石川ノ清流ヲ隔テヽ楠氏ノ遺跡金剛ノ峯ヲ望ミ、風光美ニシテ領域狭シト雖モ人口稠密(ちゆうみつ)シ誠ニ安住ノ地ナリ。尚本町ノ西部ニ在ル羽曳野山脈ニハ遊園地ノ目論見(もくろみ)モ之有、且ツ近ク産業道路ノ着工セラルベク之カ完成ノ暁ニハ将ニ昔日ノ面目ヲ一新セムトス。然ルニ町民ノ最モ遺憾トスル所ハ未ダ上水道ノ設備ナキコトナリ。由来本町ハ上水ニ乏シク僅(わず)カニ井水ニ倚拠(いきよ)スト雖(いえど)モ其ノ大部ハ水質不良ニシテ潤沢ナラズ、斯(かか)ル状態ナルヲ以テ町民ノ保健衛生若(もし)クハ保安警備ノ点ヨリ考察スルモ、上水道ノ設備ヲナスニ非ラサレバ実ニ町民ノ衛生安定ト堅実ナル町ノ発展ヲ期シ難シ。
而(しか)シテ近年世界的不況ノ余波ヲ受ケ失業者続出ノ折柄、本事業ヲ挙グル為メ自然或程度ノ失業救済ノ目的ヲ達シ得ヘク社会政策上ヨリ見ルモ最モ適切ナルヲ痛感シ、即チ上水道ノ敷設ノ急施ヲ計画シタルモノニ有之、茲(ここ)ニ本案ヲ提出スル所以(ゆえん)ナリ。
右の理由書の文末に、不況下の「失業救済」を挙げ、「上水道ノ敷設ノ急施」の理由としていたことは、当時の深刻な社会経済情勢の反映であった。この年富田林町では、同じく不況下の社会状況への対応として、「昭和九年度中」の設立をめざして、職業紹介所設置のための調査を進めている。
富田林町の上水道は、昭和三年に敷設計画が立てられて、その年の暮れまでに実地調査が行われたが、その後立ち消えとなっていた。昭和三年の計画は、川西村と新堂村を合わせた一町二村に供給する予定で、目標給水人口は三万人、工事費は約二四万円であった。これに対して、昭和八年に決定された敷設計画は、範囲を富田林町域とし、目標給水人口五〇〇〇人、工事費は八万円程度で、三年よりもかなり規模を小さくしたものであった。工事費は、起債によって賄うことにし、八年七月一〇日の町会で起債金額八万円が承認可決された。上水道敷設申請は、一〇月二一日付で大阪府知事に提出され、翌九年三月一七日付で認可された。同じ日付の大阪府土木部長名の文書では、水質および水量に関する府土木部の承認後に起工すべきことや貯水池の増設などが指示されていた。工事が始まったのは、九年一二月であった。翌一〇年五月末にほぼ工事が完成したが、六月三〇日の水害で毛人谷二四番地の鑿井(さくせい)水源地の建物・機械・貯水施設などに大きな被害が生じた。この水害復旧費六五〇〇円の追加予算と起債の議案が、八月三〇日の町会に提出されている。同日の町会に提出された「上水道災害復旧事業施行ノ件」によると、水害復旧の応急工事が行われ、「仮ニ給水ヲ続ケ居レル」という状態であった。
こうして、一〇年夏に給水を開始した富田林町の上水道は、半年後の昭和一一年二月二一日の地震によって再び大きな被害を受けた。二月二一日付『大阪朝日新聞』第四号外は、写真を掲げて「大阪地方の大震禍」「被害多き富田林、柏原方面」と報じ、同日付夕刊では、「二十一日午後二時半現在大阪府警察部に達した被害状況」として「死者八、傷者三十」と記し、柏原町で死者二人重傷五人軽傷六人全壊家屋一二、古市では死者一人軽傷二人、富田林で重傷六人と報じた。この地震によって、富田林町の上水道は、ポンプその他器具類に大きな被害をこうむっただけでなく、地質変動で鑿井水源が「七十余尺」(約二一メートル)も埋没するという打撃を受けた。復旧のため、二〇〇〇余円を投じて浚渫(しゅんせつ)工事が行われたが、涌き水量の減退は変わらなかった。そのうえ、この地震のあと、町内各家の井戸水もしだいに減退して、渇水または汚濁といった被害を受けたため、給水申し込みが増加し、給水戸数九〇〇戸、給水人口は四五四〇人に達した。上水道敷設当初に作成された給水予定表では、昭和九年度の給水予定人口が二二二五人、その後年々増加して昭和二〇年度に五一二八人に達する見込みになっていた。この予定表によると、昭和一一年度の給水予定人口は三一四六人であった。だが実際には、一三九四人も多くなったのである。
震災による既設井戸の水量減退と給水人口増加という事態に直面した富田林町は、一一年七月三一日付で「上水道改築工事認可稟請」を大阪府知事に提出した。添付書類の「富田林町上水道改築工事目論見書」によると、大字毛人谷二四番地の既設水源を浚渫してこれを予備とし、新たに大字富田林二八一番地と川西村大字甲田一二一六番地に伏流水を採取する浅井戸を掘鑿(くっさく)することになっていた。大字富田林二八一番地は第二水源地とよび、これは水田潅漑時期の夏期には使用しないで主として冬期に使用するものとし、川西村大字甲田一二一六番地の第三水源地を常用する計画であった。この改築工事の申請は、一一年一二月二三日付で認可され工事が進められたが、その後第二水源地の水質が飲料に適さないことが明らかになったのでこれを廃止し、第二水源地のポンプその他の設備は第三水源地において予備として使うことに変更された。大阪府知事宛ての「上水道改築工事設計変更稟請」は一二年四月一七日付で提出され、同年八月三日付で認可された。設計変更後、川西村大字甲田の第三水源地は第二水源地となった。この第二水源地は、毎分一・二五〇立方メートル、一昼夜一八〇〇立方メートルの揚水が可能で、富田林町上水道の常用水源として使用された(富田林市「上水道敷設工事及ビ改築工事認可稟請書及認可指令書綴」)。