昭和九年(一九三四)九月二一日早朝、四国南東部を通過した室戸台風は、紀淡海峡(友ヶ島水道)に入ってにわかに勢いを増し、前代未聞の大暴風雨となって大阪を直撃した。午前八時三分には、大阪測候所の風力計が吹き飛ばされ、まもなく測候所構内の無線用鉄塔がねじ曲げられて風力台に倒された。同測候所の風圧計は、八時三分に瞬間速度六〇メートル以上を記録していた。かつてない強風と高潮に襲われた大阪府域一帯は、午前八時前後からしばらくの間に甚大な被害をこうむり、府内で死者一八一二人、負傷者九〇〇八人、行方不明七六人、全壊家屋一万三九一一戸、半壊家屋一万五四三二戸、浸水一五万八五四七戸を数え、各地で惨状を呈した(『大阪府風水害誌』、昭和九年一〇月二〇日現在における被害調査の数字)。
台風来襲時の午前八時前後は、ちょうど児童生徒の登校時に当たっていて、始業の時刻と重なった学校では校舎倒壊によって大惨事となった。当時の校舎のほとんどは木造建築であり、しかも老朽化したものが多かった。今と違って、学校施設は避難場所になるどころか、むしろ危険な場所だったのである。『大阪府風水害誌』によると、九年九月三〇日現在における府内の小学校の被害は、全壊校舎一八、半壊校舎九六、浸水三一、死亡職員一七人、死亡児童六五二人、重傷職員三七人、重傷児童五八五人であった。中等学校の被害は、全壊校舎四、半壊校舎二、死亡職員一人、死亡生徒二四人、重傷職員一人、重傷生徒三八人であった。
富田林市域の町村では、幸い死傷者はなかったが、いくつかの小学校に校舎倒壊などの被害が生じた。富田林小学校「沿革誌」の九年九月二一日には、次のように記されている。
大暴風雨ノタメ南側校舎一棟倒壊、中校舎幼稚園講堂等モ傾斜シ損害少カラザリシモ、青年団消防団員等ノ応援ト、職員ノ協力一致ニヨリ児童ノ避難宜(よろ)シキヲ得、一人ノ微傷者ダモ出サザリシハ不幸中ノ幸ナリキ。依(よ)ツテ町長横谷亀重氏ハ町会ノ決議ヲ以テ職員一同ニ対シ謝辞ヲ呈セラル。
彼方小学校の「沿革誌」には、「大颱風(たいふう)襲来シ南側校舎ハ倒壊ニ瀕セリ、職員児童全部無事避難シ得タリシハ天助ナリキ」と記されている。新堂小学校では、この年八月末に竣功したばかりの増改築校舎が倒壊した。増築建物のうち、講堂兼雨天体操場(一二五坪)は富田林中学校の旧講堂を、二階建て校舎(一六八坪)は府立夕陽丘高等女学校の旧校舎を移築したものであった。校舎払い下げおよび移築の経費は、一万三六〇〇円であった。この増築に際し、校地が拡張され校舎二棟(一九〇坪)が移転された。増築校舎の上棟式は七月一八日、校舎の移転は八月一日に行われ、八月末に竣功した。九月末には、落成式が挙行される予定になっていたが、二一日の室戸台風で増改築校舎が全壊したのである。長年の懸案であった小学校の増改築が完成した直後に、校舎全壊という大きな被害を受けた新堂村では、復興のための協議が続けられ大阪府への陳情が重ねられた。罹災後一か月余の間は、復旧の目途が立たなかったが、一一月になって、大阪毎日新聞社の義捐金六二〇〇円余を受けることができた。これに各方面からの寄付金を合わせた一万二〇〇〇円で、一〇年一月五日に校舎復興のための第一期工事が開始され、四月二日に木造瓦葺平屋建て一棟が完成した。新堂小学校「沿革誌」には、「方状筋違ヲ用ヒ、壁ハ矢筈(やはず)ダス張コンクリート、プラスター塗、外部ハ鎧(よろい)編板張トシ」、大阪府営繕課の指揮監督のもとに「堪震堪風学校建築ノ規格トシテ建テラレタルモノナリ」と記している。一〇年六月には第二期工事が始まり、一二月に本館校舎木造スレート葺二階建てが完成した。第三期工事は一一年三月起工で、同年九月に講堂が竣功した。本館校舎と講堂の外壁は、いずれもコンクリート掻落仕上げであった。罹災からまる二年を経てようやく復興した新堂小学校の校舎の落成式が挙行されたのは、一一年一〇月一九日であった。
川西小学校も大きな被害をこうむった。「罹災川西村立小学校舎復旧建築費起債並国庫補助一件書類」には、「暴風ニ因リ傾斜甚シク倒壊ニ瀕シ」「著シク大破」とあり、「本校、分教場共ニ現在ノ位置ニ改築スル計画」と記されている。新しい同校の本校校舎本館(教室・職員室・玄関)は、一〇年七月一五日に着工し、一二月三一日に完成した。この校舎の玄関および職員室と、教室のうちの一室が現存していて、平成一三年(二〇〇一)一一月二〇日に「富田林市立川西小学校教育歴史資料室」の名称で国の登録有形文化財に登録された。
富田林小学校では、昭和一〇年四月二九日に「復旧校舎新築地鎮祭」が挙行され、一〇月二一日に南側新校舎が竣功した。一三年七月一日現在における「昭和九年罹災市町村立小学校々舎復旧建築費(国庫補助ノ伴フ分)精算状況調(竣工済ノ分)」(富田林町「小学校災害復旧費借入金利子補給ニ関スル書類」)によると、昭和一〇年に建築された富田林小学校の建築延坪数は八九九坪、建築精算金額は一一万一九六五円であった。このうち「国庫補助ノ伴フ分」としての建築延坪数は四〇二坪、その建築精算金額は五万五七四四円であった。富田林小学校校舎建築のための起債総額八万三九〇〇円のうち、国庫補助をともなう起債額は六万〇九〇〇円であったから、五一五六円の剰余額が生じたことになる。この剰余額は、「国庫補助ヲ受ケザル学校建築費ニ充当」したと記されている。同校では年々児童数が増加していて、教室が不足するという状況にあったから、倒壊校舎の復旧と並行して、校地拡張と校舎の増築が行われたのであった。この校地拡張の際、小学校に隣接していた町立幼稚園が大字毛人谷三三番地の一に移転した。台風で傾斜した園舎は老朽化していたので廃棄し、小学校近傍の木造瓦葺平屋建ての既設建物を購入して園舎として使用することになったのである。
彼方小学校では、一〇年五月に校舎建築委員会が開催され、一一年二月に平屋建て校舎五教室が完成した。一三年には、職員室、応接室、宿直室、小使室と、五教室が改築された。改築費用は、起債によって賄われたから、村の負担は大きかった。なお、一〇年五月の彼方村の起債額は、一万二七〇〇円であった。