大正八年(一九一九)一二月、原敬内閣のもとで財団法人協調会が発足した。この会は、設立趣意書に「資本労働の協調は産業発達の第一義にして又社会の平和を保する所以なり」とあり、社会政策に関する調査研究と実行を期し、すすんで労使の協同調和の実現を意図するものであった。協調会は、大正・戦前昭和期の全国各地の労働争議に関する調査報告を収集した。現在、それが法政大学大原社会問題研究所に膨大な資料として、さまざまなかたちで保存されている。その中の富田林市域に関する労働争議の報告書は、昭和五年(一九三〇)の彼方村字板持の「河内紡績株式会社板持分工場」の争議と、翌六年の大伴村大字山中田(やまちゅうだ)の「西晒工場」の争議に関する記録である。「河内紡績株式会社板持分工場」の争議は、五年九月一六日に起こり、同日解決した。労働者数は六〇人(うち女工五〇人)で、全員が争議に参加した。原因と経過は次のように記されている。
今春、工賃四割ノ値下ノ為シタル以来、相当従業員間ニ不平ノ声高カリシガ、九月十日頃偶然ノ機会ヨリ隣接同郡富田林町所在本社工場ニ比シ請負工賃単価ノ低廉ナルコトヲ知リ、遂ニ争議化シタルモノナルガ(九月十六日)、工場所在職工父兄ヨリ調停者出デ、即時左記条件ニテ解決セリ。
一、請負工ニ対シ
二割五分値上ニ応ジテ就業スルモ、一応工場ノ全部調査ヲ為シ、尚値上余地ノ存スルニ於テ最モ近キ将来ニ於テ値上スルコト
一、日給者ニ対シ
賃金一割値下スルコト
右の記録から、河内紡績会社の板持分工場の労働者がすべて請負工であり、本社工場と工賃で著しい差別を受けていたことがわかる。板持分工場の請負工は、不況下の昭和五年春から工賃四割値下げという過酷な条件を押し付けられていて、その不満が爆発したのである。労働条件の著しい差別待遇への抗議に対し、工場主は女工の父兄の調停を入れて即座に対応せざるをえなかったことがうかがえる。
「西晒工場」の争議期間は、昭和六年二月一日から二三日であった。労働者数は三六人で、女工二四人男工一二人であった。男工一二人のうち、五人は朝鮮人であった。争議の原因と経過は、次のように記されている。
経営難ニ依リ賃金一割二歩ノ値下ヲ発表セルニ因リ二月一日罷業ニ入ル。
要求事項
一、賃金値下取消ノコト
一、臨休ノ場合日給全部支給ノコト
一、傷害及病気ノ時医師料と日給全額支給ノコト
一、労働時間ヲ八時間トスルコト
一、退職手当制定ノコト
鮮人土工親方ノ斡旋ニ依リ二月二十三日解決セリ。
一、日給五十銭以下ハ従前通リ、以上ハ六分値下トス
一、就業時間午前六時ヨリ午後五時トス
一、犠牲者ヲ出サズ
右の記述から、二三日間のストライキの結果、賃金値下げに対し一定の成果が得られたことがわかると共に、就業時間の「要求」と「解決」の差、および「犠牲者ヲ出サズ」とされたところに、労使間の妥協の経過がうかがえる。なお、引用文中の「鮮人」は、日本の植民地支配下における朝鮮人に対する差別語である。