日中全面戦争

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昭和一二年(一九三七)七月七日の盧溝橋事件は、日中全面戦争の発端となった。七日夜、北京(当時は北平(ペーピン))郊外の盧溝橋の近くで夜間演習を行っていた日本軍の中隊長が実弾発射音を聞き、ただちに部隊を集合させたところ、兵士一人が行方不明となっていた。この兵士は、二〇分後に無事帰隊したが、日本軍は大隊を出動させて戦闘隊形をとった。八日未明、ふたたび中国軍陣地方面で銃声がした。日本軍の伝令二人が帰隊すべき中隊を見失い、中国軍陣地付近をうろうろしていて、射撃されたのだという。日本軍は、夜明けを待って中国軍陣地を攻撃した。

 盧溝橋付近での小競り合いは、九日にも一〇日にも繰り返されたが、一一日に現地の日本軍と中国軍との間に停戦協定が成立した。ところが、同じ一一日に近衛文麿内閣は華北派兵を声明し、挙国一致を呼びかけ、日中両軍の衝突を「北支事変」と命名した。七月二八日には華北の日本軍が総攻撃を開始した。翌月一三日、上海で日本海軍の陸戦隊と中国軍が衝突し、二日後の八月一五日には上海派遣軍二個師団が出兵された。この日、日本政府は、「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちよう)し以て南京政府の反省を促す為今や断乎(だんこ)たる措置をとる」との声明を出した。八月三一日には、華北の兵力増強を目的とする四個師団の動員が発令された。九月二日、「北支事変」は、「支那事変」と改称された。日本国民のほとんどは、政府の声明やマスコミの報道のままに、日本軍に刃向かう「支那軍の暴戻を膺懲」するのだと信じ、戦時気分を横溢(おういつ)させて侵略戦争にのめり込んでいった。

 『大阪朝日新聞』昭和一二年九月一八日付は、「父君も満足」との見出しで、新堂村大字中野の花岡一等兵が「北支最前線で奮闘中名誉の負傷をした」と報じ、「国家のため」に一身を「捧げる覚悟」だから「よろしく頼むと弟にいひ含め」、長男は元気よく出発したと、父親は「笑みさへ浮かべて語る」、などと記した。同紙一〇月一二日付には、「産婆さんの報国」「勇士の家のお産に奉仕」の見出しで、彼方(おちかた)村板持の銃後の美談が掲載された。この記事は、助産婦をつとめた女性が出征兵士の妻のお産だからと言って謝礼金を受け取らなかったので、家人が出産費用を「皇軍慰問金」として大阪朝日新聞社に「寄託した」というものであった。出征兵士の留守宅に対する援護活動は、どこの町村でも活発に行われていて、銃後の美談として、しばしば紙上に掲げられた。

写真94 日中両軍の衝突を報じる記事 (『大阪朝日新聞』昭和12年7月9日付夕刊)

 『大阪朝日新聞』一〇月二九日付は、「旗の波、灯の流れ 盛んな戦勝祝賀行列」の見出しで、「上海大捷戦」を祝う富田林町の人々の光景を次のように報じた。

南河内郡富田林町では、二十八日午後、町を挙げて盛んな戦勝祝賀会を催し、静かな町もこの日ばかりは軍歌のリズム、国旗の氾濫で沸き返つた。午後二時郷軍、軍友会、青年団、国防婦人会、学童、町有志ら二千名が富田林小学校に勢揃ひし、手に手に日の丸の小旗を打ち振つて町内を行進し、半里の野道を氏神喜志神社に参拝、戦勝感謝、皇軍の武運長久を祈つた。また富田林小学校の下級生や幼稚園の児童も、先生に引率されて町内をめぐり歩いてかはいゝ軍国気分をふりまいた。

 一二年九月から一〇月にかけて、華北の戦線が次々と拡大され、上海では激戦が続いていた。一〇月下旬から上海戦線に新たに大軍が投入され、一一月中旬から下旬にかけて華中の戦線も急速に展開した。ちょうどこの時期の一一月二〇日に、富田林小学校では尋常科五年生以上の児童による「発火演習」が行われていて、『大阪朝日新聞』一一月二一日付は、「意気高し〝豆兵隊〟 従軍記者と赤十字班は女児で」の見出しを付け、次のように報じている。

中部防空演習第一日の二十日、南河内郡富田林小学校五年生以上の児童が結成する「健児団」では午後から河南平野を舞台にすばらしい発火演習を展開し、ヒツトラーの少年突撃隊さながらの意気を示した。この日半日の授業が終ると、松山校長を統監部総裁に、江川訓導を統監部長にいたゞく健児団百五十名は南、北両軍に分れ、堂々校門を出発、両軍には写真班や六年生女児の従軍記者、高等科女児の赤十字班が腕章も甲斐々々しく従ひ、自転車の伝令班やラツパ手まであり、全く本格的な少年軍隊だ。午後二時石川の対岸彼方小学校に陣取つた南軍が行動開始、北軍の先占した河岸の小山を強襲、つひにこれを奪取した。北軍は戦ひ利あらず石川を渡り西岸に強固な陣地を築き、死守の意気を示せば、南軍は金剛颪(おろし)をつき刈取りの終つた田の中を畦や稲束の掩護(えんご)物を巧みに利用しながらひた/\と追撃をつゞけ、午後四時河畔に煙幕を張つてドツと石川を押し渡る、このあたり上海クリークの敵前渡河を思はせ婦人従軍記者も戦線を縦横に活躍して観衆をよろこばせた。

豆を煎るやうな銃声が晩秋の空にひゞくうち、勇ましい突撃ラツパの合図につれ、両軍喊声(かんせい)をあげて河辺に肉弾戦を交へて演習を終つた。

 右の「発火演習」が富田林小学校で行われた一一月二〇日に、大本営が宮中に設置された。一〇日後の一二月一日、参謀本部は南京攻略作戦を命令した。先陣を争って殺到した日本軍は、同月一三日南京を占領した。当時の日本人の多くは、国際的に「大虐殺」の名で呼ばれる残虐行為を日本軍が繰り広げていることなど全く知らず、勝利感に酔いしれた。

 一二年七月からの、大規模な日本軍の進攻によって、おびただしい数の中国軍兵士と中国一般民衆の命が奪われていった。そして、のどかな富田林市域の町村から、村人の歓呼の声に送られて出征した兵士の中にも戦死者が出はじめ、しだいにその数が増えていった。

 『大阪朝日新聞』一二年一〇月三一日付は、「忠魂・永へに国を護らん」と記し、富田林町出身の北村留吉上等兵の戦死を報じた。新堂村出身の太田正治一等兵は、機関銃射手として華北転戦中の一〇月一五日に戦死した。『大阪朝日新聞』一一月一〇日付によると、病床の「母の写真を肌身につけて」出征した太田一等兵は富田林土木出張所の職員であり、兄もまた出征していた。同紙一一月六日付は、「仰げ!護国の人柱」「夢に立つ雄姿、その日愛児は忠烈の戦死」の見出しで、彼方村出身の田中俊治一等兵の戦死を報じた。昭和一二年の「彼方村事務報告」(彼方村「会議録綴」)には、「出征軍人動静」として「戦死一、戦傷四」とあり、「伏見堂出身歩兵上等兵田中俊治君十月二十三日北支山西省旧関三角山附近ニ於テ名誉ノ戦死ヲ遂ゲラル、十二月六日午后二時無言ノ凱旋アリ、依而十二月十日本村小学校々庭ニ於テ田中俊治君ノ英霊ニ対シ村葬ノ式典ヲ挙行セリ」と記されている。同事務報告によると、一二年の彼方村の応召人員は三三人(うち即日帰郷四人)、召集解除者は一人で、一三年一月末の同村出身軍人の所在地は、「北支一五、中支九、満洲九、朝鮮二、内地一〇、計四五」であった。昭和一三年の東条村「議事之綴」を見ると、九月一〇日の村会に「村葬之件」が議案として提出されていて、「名誉ノ戦死者故陸軍騎兵伍長山際佐市郎殿ノ英霊ニ対シ村葬ノ礼ヲ以テ之ヲ弔フモノトス」と記されている。山際伍長は、一三年五月九日に山西省平陸県平陸守備隊において戦死した。この年一月八日に、長女が生まれたばかりであった。村葬は、一〇月二三日に東条小学校で執行された。