警防団の編成

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昭和一四年(一九三九)一月に警防団令が勅令によって公布され、四月一日から施行された。これによって、従来の消防組は改組され、市町村に防空・水火消防その他の警防に従事する警防団が設置された。防空体制の整備は、昭和初年から軍部の指導で進められ、防空機関としての防護団が各地に設置されるようになっていた。この防護団の機能と消防機能を統合した戦時体制下の警備のための地域団体が警防団であり、それは官製の組織として位置づけられた。団長と副団長は地方長官が任免し、その他の団員は警察署長が任免した。団員の服務規律や懲戒規定は地方長官が定めた。出動の時に、団員は所定の服を着用し、警察官の点検を受け、身を挺して任務を遂行しなければならなかった。戦時下において警防団は、警察の補助組織としての役目も担っていたのである。警防団に関する費用は町村が負担し、団員の定員や給与および設備資材は、地方長官が町村会に諮問して定めた。設備資材は、すべて町村で備えることになっていた。

 富田林町には、大正二年(一九一三)に結成された消防組があった。結成時の組員は六〇人だったが、昭和三年の『富田林町勢一覧』では、消防手三八人と記されていて、装備は自動ガソリンポンプ一台、手動ポンプ一台であった。八年の「富田林町事務報告」(富田林町「町会会議録綴」)では、ガソリンポンプが二台に増えている。組員数は三年と同じ三八人で、「組頭一名、小頭四名」と記されている。昭和一〇年には富田林中学校が全焼するという事件があり、同年富田林町はフォード社製ポンプ自動車を購入して消防組に配備した。この消防組が、一四年の警防団令の公布によって改組され、富田林町警防団が結成された。一五年度の「富田林町歳入歳出決算書」によると、同町の警防費の歳出額は二一九八円九二銭であった。このうち雑給が四七七円八〇銭、需要費一〇四九円八六銭、営繕費が六七一円二六銭であった。雑給の内訳説明に演習出場手当二一九円三〇銭とあり、需要費の中に団旗、腕章および防毒面代一三三円六四銭、訓練出場賄費二二一円四〇銭、監視哨(かんししょう)賄費一〇円五〇銭などが含まれていて、防空のための施設や装具が備えられ、防空訓練が幾度か実施されたことがわかる。富田林市域の他の村々でも、一四年に警防団が結成され、その後しばしば防空訓練が実施された。一四年度の川西村の警防費は、三四六円七一銭であった。この歳出額の主な内訳は、団長以下の役職手当や警防団結団式のための費用、警防団旗購入費用、訓練出場五回の団員手当や賄費などであった。一五年の「川西村警防団施設調書」(川西村「稟請書類綴」)によると、同村警防団の構成は、団長一人、副団長一人、分団長六人、副分団長六人、班長一二人、警防員七四人の計一〇〇人であった。分団は、大字を単位とすることが多かった。一五年の川西村警防団の装備は、手動ポンプ一台であったが、翌一六年には手動ポンプが四台に増えている。

写真96 「富田林警防分団」の文字が刻まれたホースの先(富田林市消防団所蔵)

 喜志村の警防費は、一五年度七六〇円四九銭、一六年度八三二円九六銭であった。両年度とも戦死者の公葬参列出張費や防空訓練のための支出があり、一六年度の決算説明には「大日本防空協会負担金」「警防団員応召ニヨル餞別」といった記述がみられる。戦争の長期化とともに、どこの町村でも出征する警防団員がしだいに増加していった。団員数は確保されても、団の弱体化はいなめなかった。一六年度の大伴村の警防費は一〇四八円五四銭、新堂村では八三〇円六九銭、彼方村五八九円三一銭、錦郡村二二三五円四〇銭、東条村一二二九円三八銭であった。なお、一五年度の東条村村会会議録には、「警防団組織及定員並ニ設備資材」に関する大阪府知事半井(なからい)清名の同村村会宛て諮問書が綴られている。

 昭和一七年における富田林町・新堂村・喜志村・大伴村・川西村・錦郡村・彼方村による一町六村合併後の一八年度の富田林町の警防費歳出決算総額は、六万五二九一円四八銭であった。そのうち、経常部は八四二五円九八銭、臨時部は五万六八六五円五〇銭で、臨時部決算額のうち、三万二二九〇円五〇銭が備品費、二万四五七五円が器具倉庫建築費であった。翌一九年度の警防費決算額は、二万七四八八円二一銭であった。一八年の富田林町警防団は、団員総数八七二人となっていて、団長一人、副団長二人、分団長七人、副分団長一四人、部長三三人、副部長三五人、班長八九人、警防員六九六人の構成であった。この場合の分団長は、合併以前の各町村の団長に当たり、旧町村の分団長は部長とされている。一八年の「富田林町事務報告」(富田林町「議事書類綴」)には、「防空訓練ニ関スル事項」として、「消防訓練延一八二回、消防講習三回、防空訓練延二一回、綜合訓練一三四回、家庭防空訓練一三四回、サイレン吹鳴試験二回延一四ヶ処、警防団員血液検査八七二名」と記されている。一九年の事務報告には、「男子警防団員数八七七名」「女子警防報国団結成、八分団七〇五名」「特別警防隊結成、七分隊八〇名」とあり、「自動車ポンプ大阪市へ献納、一輌」と記されている。女子警防報国団の結成は、青壮年男性の出征によって弱体化した警防団を、女性の組織で補おうとするものであった。大阪市防空のために献納された自動車ポンプは、昭和一〇年に購入されたフォード社製のポンプ自動車と思われる。一九年になると、大阪市への空襲がいよいよ現実のものとなり、府内各町村所有のポンプ自動車が大阪市に集められたのである。