古市村(現羽曳野市)にあった古市警察署が、富田林に移転して富田林警察署となったのは、明治一六年(一八八三)二月であった。移転当初は、富田林村戸長役場の一部を仮庁舎としていたが、翌一七年五月に富田林村六三番地に新庁舎が完成した。明治四五年には、富田林町大字毛人谷(えびたに)四三三番地に新しい庁舎が建てられ、翌大正二年(一九一三)に旧庁舎は敷地とともに富田林町役場用として払い下げられた。明治四五年に新築された建物は、本庁舎一棟、留置場一棟、訓示撃剣場および納屋一棟、署長官舎一棟であった。この木造庁舎は、昭和三六年(一九六一)七月に、毛人谷五〇番地の一に鉄筋コンクリート造り二階建て新庁舎が完成するまで、四九年間富田林警察署として使用された。
明治・大正期の富田林警察署の所轄区域は、本署直轄の一六町村(富田林町・新堂村・喜志村・彼方村・錦郡村・川西村・大伴村・東条村・磯長村・山田村・石川村・白木村・河内村・中村・赤阪村・千早村)のほか、長野分署所轄の八町村(長野町・三日市町・千代田村・天野村・高向村・加賀田村・天見村・川上村)、黒山分署所轄の一〇村(狭山村・野田村・平尾村・黒山村・日置荘村・南八下村・北八下村・丹南村・丹比村・金岡村)、古市分署所轄の六町村(古市町・駒ヶ谷村・西浦村・藤井寺村・埴生村・高鷲村)、柏原分署所轄の五町村(柏原町・道明寺村・玉手村・国分村・志紀村)であった。このように、富田林警察署は、長野・黒山・古市・柏原の四分署を統括し、本署直轄とあわせて南河内の全域を管轄していたが、大正一五年七月に、この四分署は独立して、それぞれ長野警察署・黒山警察署・古市警察署・柏原警察署となった。
富田林警察署の所轄区域が、これまでの本署直轄区域だけとなった後の昭和二年における同署の配置定員は、警部一人(署長)、警部補一人(司法事務)、巡査部長三人(内勤)、巡査二七人(うち内勤二、看守一、派出所詰四、駐在所詰一七、高等一、司法二)の計三二人であった。昭和四年には巡査部長が増員されて四人となった。これは、昭和三年中に定められた思想警察係員増配置の方針に従い、同署に四年一月一九日付で高等係巡査部長一人が増員されたことによる。昭和一四年の配置人員は、警部一人、警部補一人、巡査部長五人、巡査三一人であった。昭和四年における同署の巡査の数は二七人であったから、巡査四人の増員は、五年以降一三年までの間に行われたものであった。三一人の巡査の配置部署は、治安係一人、庶務一人、司法係二人、看守一人、署在地四人、駐在所一七人、工場建築係その他五人であった。巡査部長が一人増員されて五人となったのは、一四年四月五日であった。同年四月一日から警防団令が施行されたのにともなって、警防係巡査部長一人が増員されたのである。一五年には、三月三一日付で、経済保安係巡査部長一人、経済保安係巡査一人、工場係巡査一人が増員された。これらの増配置は、戦時体制下の経済統制の強化に対応したものであった。なお、同署の「沿革誌」は、「昭和十五年十月十六日警務書記生一名配置サル」「昭和十六年六月三十日、同年十月十五日警務書記生各一名配置セラル」と記している。警務書記生の採用は、戦時下における警察事務の増加や、警察官の出征による人手不足などを補う意味を持っていた。
昭和一五年の富田林警察署の巡査の数は三四人であったが、一八年には三二人に減った。この三二人の部署は、衛生係一人、労政係一人、司法係二人、看守一人、駐在所一七人、署在地四人、特高一人、経済保安係三人、交通係一人、兵事係一人であった。巡査部長は、庶務一人、保安係一人、会計一人、特高一人、警務一人、経済保安係一人、武道教養係一人の計七人であった。「沿革誌」には、「昭和十八年三月三十一日付ヲ以テ武道教養係巡査部長一名増員セリ」とあり、「昭和十八年十二月二十七日、女子警察書記(雇員)一名配置セラル」と記している。「女子警察書記」の採用は、軍隊への男性の根こそぎ動員という社会状況の反映であり、経済保安係の増員や、特高、兵事係、武道教養係といった配置部署に、太平洋戦争下の警察の動きがうかがえる。