昭和一二年(一九三七)四月五日、保健所法が公布され七月一五日から施行された。同年七月一四日公布の保健所法施行規則には、保健所の職員として所長・技師・技手・書記・指導員・保健婦を置くとあり、保健婦の名称が初めて法律に明記された。所長は技師をもってあてられ、技師と技手のうち二人は医師、一人は薬剤師でなければならなかった。保健婦については、同年八月一三日付の「保健所設置認可申請ニ関スル件」の中で、「看護婦免状ヲ有スルモノヨリ採用シ」「成ルベク産婆免状ヲ兼ネ有スル者一人以上ヲ置カレタキコト」と記されていた。高い乳幼児死亡率への対処や栄養改善および飲食物の衛生、疾病の予防と早期発見には、農山村の僻地まで巡回指導する保健婦の役割がたいへん大きかった。
『保健所ニ関スル法規及例規』(厚生省衛生局、昭和一四年二月)によると、全国における一二年度の保健所設置数は四九、一三年度は二九であった。大阪府では、南河内郡を担当区域とする保健所を、一二年度において富田林町に設置することになった。大阪市では住吉区阪南町(現阿倍野区)に阿倍野保健所、東成区北生野町(現生野区)に生野保健所が設けられることになった。『社会事業研究』昭和一三年五月号には、「府立富田林保健所」の見出しで、「南河内郡富田林町毛人谷に昨年末から建設中であつた富田林保健所」「全国の保健所のトツプを切つて十二日竣工した」とあり、次のように紹介された。
敷地面積は四百二十坪、建物は二階建百六十八坪、木造セメント仕上げ濃灰色の簡素な洋館に平家建日本家屋一棟が附属してをり、総工費二万三千円、玄関右側に待合室、診察室、処置室、隔離診室、左側に所長室、事務室、母性小児待合室があり、廊下を隔てゝX線室、暗室、化学室、看護室、母性小児診察室が並び附属の日本家屋は左半分に小児食調理室、講習室、講習員控室があり、あとは宿直室、小使室、浴室などにあてられ、本屋二階は会議室兼講堂、応接室になつてをり、これらの設計を一見しただけでも、栄養の改善、母性乳幼児の健康増進、衛生思想の啓発などに重点をおく保健の特色がはつきり看取される。
続いて同記事は、「レントゲンその他の医療器具の搬入や内部設備を急いでをり、五月初めには所員も揃ひ、輝かしい使命への一歩を踏み出すはず」と記していた。
富田林保健所の開所式は、一三年五月六日に行われた。初代所長は渡辺義雄医師、ほかに医師一人、衛生主事補四人、衛生技手一人、保健婦四人が置かれた。『健康のいしずえ 富田林保健所五〇年史』によると、栄養改善のための講習会は一三年に二二回(参加人数三八四四人)、一四年三七回(参加人数五〇三四人)であった。妊産婦と乳幼児の検診や保健指導は、同保健所の重要な事業として取り組まれたし、寄生虫予防にも力が入れられた。なお、同保健所五〇年史には、「大阪府乳幼児及び母親保健指導員の思い出」や「粉乳を求め涙訴の母親に若い保健婦の困惑」などの回想記が収められていて、戦中・戦後の食糧事情の困難な時期に、南河内郡の農山村を自転車で巡回指導した保健指導員や保健婦の姿がうかがえる。