昭和一六年(一九四一)一二月八日、日本軍のマレー上陸作戦開始とハワイ真珠湾攻撃によって、太平洋戦争が始まった。八日の真珠湾攻撃と一〇日のマレー沖海戦で米英の海軍に打撃を与えた日本軍は、東南アジア諸地域への迅速な侵攻とあいまって、太平洋の制海権・制空権をいっきょに掌握した。一七年一月二日にマニラ占領、二月一五日シンガポール占領、三月八日ラングーン占領と続き、三月九日にはジャワのオランダ軍が降伏した。国民は緒戦の勝利に熱狂し、政府や軍部もそれに酔いしれた。
太平洋戦争が勃発して約四か月後の昭和一七年四月一日、富田林町・新堂村・喜志村・大伴村・川西村・錦郡村・彼方村の一町六村が合併して新しい富田林町が誕生した。『朝日新聞』昭和一七年四月一日付は、「人口も一躍二万六千」「〝大富田林町〟けふ輝く発足」と報じ、「一日午前八時から富田林国民学校第二講堂を開庁式とともに仮町舎にして事務を開始する」と報じた。
『富田林市誌』には、「昭和十六年新春」に「大阪府当局より富田林町を中心とする」一町六村の「大同併合の勧奨」があり、太平洋戦争勃発という「歴史的大事件を中にして」一七年四月一日に「大富田林町が成立」したと記されている。同書は、「国家はあげて総力戦の一途に進み、勝たんが為には個々人の自己本位に立った理論を陳べることを許されなかった」と記し、「高度国防計画の線」に沿って、大阪府から合併に向けての強制指導が日増しに強化されたと述べている。合併については、富田林町にも他の村々にも、賛成するものもあれば強く反対する人々もあった。しかし、戦争遂行目的の達成のためという当局の意図のもとに、一町六村の合併は強行的に進められたというのであった。
一七年四月一日の合併後六月二五日まで、新しい富田林町は大阪府属の改正重延が町長職務管掌であった。二日後の六月二七日、新富田林町の町長に横谷亀重が就任した。横谷亀重は合併前の富田林町の町長を、昭和五年一〇月二二日から一七年三月三一日まで一一年五か月つとめていた。横谷は大正一四年(一九二五)四月に初めて富田林町の町会議員となり、五年半同議員をつとめたのち町長となった。