横谷亀重初代町長

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横谷亀重は明治八年(一八七五)七月三一日に広島県比婆(ひば)郡敷信(しきのぶ)村実留(さなどめ)(現庄原市)に生まれ、明治二三年三月に実留小学校中等科を卒業した。明治二八年七月二九日に呉海兵団に入団した横谷は、明治三〇年七月から三一年三月まで海軍砲術練習所に入所し同年一二月に海軍一等水兵となり、三六年には砲術教員教程練習生として砲術練習所で訓練を受けたあと海軍一等兵曹となった。翌明治三七年から三八年に日露戦争に従軍したのち、三九年に海軍砲術練習所教員として勤務し、四三年には海軍砲術学校教員となった。大正三年(一九一四)に海軍重砲隊付となり、七年海軍兵曹長、九年海軍特務少尉となり、一二年三月に同特務中尉に任じられ予備役となった。二八年間の海軍勤務を終えた横谷は、親戚の勧めで大正一一年に富田林に移住し、金剛無尽株式会社の支配人となった。二年後の大正一四年に常務取締役、昭和五年(一九三〇)に取締役となり、約二〇年間同社の役員をつとめたが、一七年に金剛無尽が大阪不動無尽など四つの無尽会社と合併して近畿無尽株式会社(のちの近畿相互銀行)となった翌年の昭和一八年に退職した。

写真100 横谷亀重町長 (1875-1963)

 昭和二年一〇月の海軍特別大演習の時、横谷は召集されて第三艦隊司令部付を命じられた。金融会社の役員で町会議員の横谷は、日露戦争に従軍した経歴を持っている海軍特務中尉として知られていた。富田林小学校の「沿革誌」には、「昭和五年五月二六日 海軍特務中尉横谷亀重氏ヲ聘シ海軍記念日ニ関スル講演会ヲ開キ職員児童聴講ス」と記されている。翌二七日には、新堂小学校でも海軍記念日に関して横谷の講演があった(新堂小学校「沿革史」)。

 横谷亀重は富田林町の出身ではなかったが、海軍軍人としての経歴と金剛無尽の役員としての地位、そしてなにより日常の謙虚な態度から同町での人望は厚かった。横谷は大正一四年の富田林町会議員選挙では立候補者の中でもっとも多く得票し、昭和五年には名誉職町長となった。

 昭和一七年の富田林町と六か村の合併は、戦時下における当局の強い要請によるものであった。横谷亀重は日露戦争以前からの長い海軍歴の持ち主であり、一一年五か月にわたり旧富田林町長をつとめていた。太平洋戦争下における大合併という困難な時期の町政担当者として、横谷はふさわしい人物だったのである。なお、合併直前の六か村の村長は、新堂村平井房吉、喜志村内本辰次郎、大伴村石田慶太郎、川西村中野芳太郎、錦郡村西田健司、彼方村土井竹二郎であった。