『毎日新聞』昭和一九年(一九四四)三月二九日付に、「開拓一年の記 大阪府下富田林入植転業者の報告」と題する記事が掲載された。同記事には、戦時下の食糧増産を目的として、農地開発営団が昭和一七年中に大阪・岐阜・静岡・愛知・三重・滋賀・奈良・和歌山の八府県に一六か所の入植地を選定し、開拓が始まったと記している。
富田林町大字廿山(つづやま)の丘陵地が、農林省から入植地の指定を受けたのは一七年一〇月であった。大阪府耕地課、農林水産課、開発営団事務所などが入植者の決定、営農、土地開墾のための第一歩を踏み出し、大阪青果物組合員や青少年団員の援助を受けて六五町歩の開拓が始まった。一か月平均三〇〇人、一万七一五〇人の奉仕によって松林が切り倒され、雑草が刈り取られ、道路や防風林、田畑が作られた。指定地はすべて個人の所有地だったから、農地開発営団が買い上げて入植希望者に五か年据え置きで払い下げた。
一家を挙げての入植申込者は、六〇余家族を数えた。このうちから、二〇家族が第一回入植者として選ばれた。そのほとんどは、転廃業者とその家族であった。前職が牧師や国民学校の教員だった人のほか、鍛冶屋・呉服屋・染物屋などの転業者がいた。『毎日新聞』の「開拓一年の記」には、「『私一家こそ疎開の先達ですよ』と朗かに語る大阪西淀川区出身の家族」もあると記したうえで、次のように報じていた。
彼等入植者たちは満蒙の曠野(こうや)に奮闘史を綴る先輩開拓者たちの労苦を体してザクリと不毛地に第一の鍬を入れたのは昨年の春だつた。そして暑さ寒さと闘ひながら一戸当り最高一町七反歩の田畑を耕しつづけた。妻も娘も年寄も全家族が明日への希望を楽しく夢見て働いた。一と鍬から一と畝と掘り起される黒い塊、かれ等の撓(たわ)まぬ精神はここに一年の試練期を了へて、ことしから麦七百五十石、豆類百石、根菜類七万五千貫の大きな収穫を開発地からあげるところまで辿(たど)りついた。
右の文に続いて同記事は、「四月には開拓地の片隅に新しき部落が出来上る」と記した。そして、「最初は本当にいやでした」「力限り鍬を揮(ふる)ひつづけても工事はなかなかはかどりませんし、幾度中途で止さうかと考えました」が、「開拓も完了」して「近く家屋その他の施設も出来ます」という開発地部落会長の言葉を掲載していた。