学童疎開

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太平洋戦争末期の昭和一九年(一九四四)一二月一九日の中河内郡三宅村(現松原市)と瓜破(うりわり)村(現大阪市平野区)への爆弾一八個の投下に始まり、二〇年八月一四日の大阪陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)への爆撃に終わる大阪府域への空襲は、マリアナ基地発進のボーイングB29爆撃機一〇〇機規模以上による大空襲八回を含めて約五〇回を数えた。この結果、大阪は人的にも物的にも甚大な被害をこうむった。

 激烈な空襲にさらされた大阪府域ではあったが、金剛山地と羽曳野丘陵の間に位置する富田林町は、疎開に適した安全地と考えられていた。富田林町は、一九年八月下旬に始まる大阪市学童集団疎開の府内における受け入れ地の一つであったし、縁故疎開も多かった。富田林町の人口は、昭和一八年に二万二九六三人、一九年に二万二九四七人であったのが、二〇年には三万二二九一人に膨れ上がった(「富田林町事務報告」昭和二〇年)。空襲を逃れるために、あるいは空襲で焼け出されたために、何千人もの人々が、敗戦の年に富田林町に移り住んだのであった。だが、戦争末期の激しい空襲下にあっては、美しい山並みと丘陵に挟まれた田園地帯の富田林も、決して安全ではありえなかった。

 大阪市の学童集団疎開は、一九年八月二八日に始まった。同年六月三〇日に閣議決定された「学童疎開促進要綱」に基づき、国民学校初等科三年以上六年までの縁故疎開のできない児童を対象に、集団疎開が実施された。一九年一〇月二一日までの大阪市の第一次集団疎開の数は、二五四校、六万六九八三人であった。受け入れ府県は、大阪府内・滋賀県・奈良県・香川県・和歌山県・広島県・島根県・徳島県・福井県・石川県・愛媛県・京都府であった。なお、一九年一二月六日から、二五一校七七七八人が追加的に集団疎開したのが第二次である(『新修大阪市史』七)。

 大阪府内に集団疎開を実施したのは、東淀川区・東住吉区・住吉区・旭区の各校と、西成区と天王寺区の一部の学校であった。このうち、南河内郡が疎開先となったのは、東住吉区の各校と住吉区の一部の学校であった。南河内郡富田林町には、東住吉区の平野国民学校と育和国民学校の児童が集団疎開した。両校とも、集団疎開が実施されたのは、一九年九月一七日であった(平野小学校「沿革史」、『大阪市立育和小学校創立百周年記念誌』)。

 昭和一九年九月現在の「平野国民学校疎開現地寮舎一覧」(大阪市立中央図書館所蔵「学童集団疎開実施状況調」昭和二十年一月起)によると、同校の寮舎となったのは、浄谷寺・妙慶寺・興正寺別院(いずれも富田林町富田林)・西方寺・栄軒・金光教会(いずれも同町毛人谷)・教蓮寺・専光寺(ともに同町新堂)・常念寺(同町北大伴)・泉龍寺(同町山中田)・河楠荘(同町横山)の一一か所であった。寮本部は、西方寺に置かれた。児童総数は四四八人、派遣教員一五人、寮母一四人、作業員一二人であった。寮舎の編制表には、寮ごとに、収容している学年、性別、児童数が記され、担当の教員・寮母・作業員・寮医・寮嘱託の氏名が掲げられている。この時の編成では、西方寺が四年女三九人、浄谷寺四年男四五人、妙慶寺三年男四九人、栄軒三年女三七人、河楠荘六年男五八人、常念寺六年男三三人、教蓮寺六年女四一人、専光寺六年女三七人、興正寺別院五年男六五人、泉龍寺五年女二四人、金光教会五年女二〇人となっていた。

写真102 平野国民学校集団疎開児童記念写真 (昭和20年10月14日撮影、常念寺所蔵)

 一一か寮のうち、河楠荘と栄軒は旅館であり、河楠荘だけが他の寮舎と離れていて、富田林町の南の端の汐ノ宮温泉地にあった。最寄りの駅は、河楠荘が近鉄汐ノ宮駅で、他の一〇か寮は富田林駅であった。疎開実施当日の九月一七日、同校児童は近鉄針中野駅から電車に乗り、富田林駅と汐ノ宮駅で下車し、それぞれ徒歩で寮舎に入った。児童一人ひとりの荷物は、先に寮舎に送られていた。荷物は一人につき、布団一組と柳ごうり一個であった。柳ごうりの中には、石鹸・洗面具・薬・寝巻・下着・教科書・筆記用具など、必要最小限のものが入っていた(富田林市史編集室の調査による)。この荷物と児童の輸送費は、大阪市から交付された(「大阪市学童集団疎開輸送賃金等支払ニ関スル件照会」大阪市立中央図書館所蔵「昭和十九年度学童疎開費予算執行一件綴」)。

 疎開して三か月ほど経ったころ、河楠荘にいた六年生の男子五八人が、瀧谷不動明王寺(富田林町彼方)に移った。河楠荘はその後、寮舎として使用されなかった。瀧谷不動明王寺は、昭和二〇年三月に六年生が引き揚げたあと、新六年生の女子の寮舎となった(昭和二〇年五月一五日付「大阪市平野国民学校疎開地調」大阪市立中央図書館所蔵「学童集団疎開地一覧」昭和二十年五月十五日調)。

 一九年九月から半年間、富田林で過ごした六年生の男女一六九人は、翌二〇年三月一二日に母校に引き揚げた。二日後の一四日に、初等科修了式(卒業式)を挙行するためであった。引き揚げた次の日の三月一三日深夜から一四日未明にかけて、第一次大阪大空襲があった。この時の主な被災地域は、浪速区・西区・南区・港区・大正区・東区・西成区・天王寺区であったが、投弾中心地から外れた東住吉区にも若干の被害があった。大阪府警察局の三月一九日付「空襲被害状況ニ関スル件」は、平野警察署管内の被害として、全焼二四戸、半焼一四戸、重傷三人、軽傷六人、罹災者一一九人と記している(小山仁示編『大阪空襲に関する警察局資料Ⅰ―小松警部補の書類綴より―』)。被害を受けなかった平野国民学校では修了式を行えたが、被災中心地では、疎開先から大阪に帰ったものの、家も学校も焼失し、修了証書(卒業証書)をもらえないという事態も生じた。

 三月下旬から四月上旬にかけて、新三年生と四年生の追加疎開が行われ、一、二年生も加えた追加疎開が四月から五月初めに行われた。二〇年五月一五日付の「大阪市平野国民学校疎開地調」(「学童集団疎開地一覧」)では、一年生から六年生までの疎開児童の総数が四九二人となっていて、うち一年生が一〇人(男一、女九)、二年生が二六人(男一二、女一四)であった。一、二年生の男女三六人の寮舎は、富田林町新堂の光盛寺であった。同寺は一九年九月から育和国民学校の寮舎として使われていたが、二〇年四月から平野国民学校の寮舎となった。二〇年五月一五日現在の同校の寮舎は、西方寺・浄谷寺・妙慶寺・興正寺別院・常念寺・泉龍寺・教蓮寺・専光寺・光盛寺・瀧谷不動明王寺・極楽寺(富田林町錦織)の一一か寮であった。派遣教員は二〇人、寮母二一人、作業員二一人であった。寮母は、たいていが疎開児童に付き添って富田林に来ていたが、賄い担当の作業員の中には寮舎となった寺院の檀家や近所の女性がいた。興正寺別院を寮舎とした児童の付き添い教員の一人は、妻子とともに同寺に移り住んでいた。この教員の妻は、賄いも手伝って児童の世話をした(富田林市史編集室の調査による)。

 育和国民学校は、富田林町の北部とその東隣の磯長(しなが)村(現太子町)に疎開した。昭和一九年九月の「大阪市育和国民学校疎開現地寮舎」(「学童集団疎開実施状況調」昭和二十年一月起)の一覧表によると、同校の寮舎は、月光寺・桜井青年会場・明尊寺・大深青年会場・正信寺・金光寺・川面(かわづら)青年会場(いずれも富田林町喜志)・光盛寺・西徳寺(同町中野)・叡福寺(磯長村太子)の一〇か所であった。光盛寺から北に位置する寺院や地域の青年会館が、育和国民学校の寮舎にあてられたのである。寮本部は、明尊寺に置かれた。この時の同校の疎開児童数は、三年から六年まで三五二人であった。派遣教員は一一人、寮母一四人、作業員一一人であった。昭和二〇年五月一五日付「大阪市育和国民学校疎開地調」(「学童集団疎開地一覧」)によると、磯長村では叡福寺に加えて善久寺・光福寺・了徳寺が寮舎とされていて、疎開児童数は一年から六年まで総数四〇六人であった。このうち一年生は一八人(男一二、女六)、二年生は三九人(男二一、女一八)であった。平野・育和両校とも、幼い一、二年生の集団疎開は少なかった。

 昭和一九年の「富田林町事務報告」には、「縁故疎開学童激増ノタメ六学級ヲ増加」とあり、翌二〇年の同町事務報告には、「縁故疎開並ニ罹災者移住ノ為メ大伴校二学級、彼方校二学級、錦郡校二学級、計六学級ノ増加ヲ見タリ」と記している。富田林町喜志・大伴・川西の各国民学校初等科の児童数は、一九年に喜志四四二人、大伴四五八人、川西一六九人であったが、二〇年には喜志六三六人、大伴六一八人、川西二七五人と著しく増加した。川西小学校の「沿革誌」の二〇年四月四日には、「大阪市・堺市・布施市、国民学校授業停止、学童疎開ヲ強化セルタメ本校ニモ同方面ヨリ転入学者五拾名ノ多キニ上リ、本日受付、各学級ニ編入ス」と記されている。二〇年になると、富田林町に縁故疎開する児童が急激に増加したのであった。

 なお、二〇年一月から八月までの集団疎開状況を記した平野・育和両校の「学童集団疎開実施状況ニ関スル件」(大阪市立中央図書館所蔵「学童集団疎開実施状況調」昭和二十年八月末日現在)によると、一か月以上の病気にかかった児童が、平野国民学校では五月に呼吸器肺炎一人、六月に心臓脚気(かっけ)一人・疥癬(かいせん)一人、七月に盲腸一人・腸カタル二人、八月に腫れ物一人・感冒一人であった。育和国民学校では、八月に疑似赤痢が一人あり、七月には腎臓炎で児童一人が死亡している。

 敗戦後も、しばらく富田林で疎開生活を続けていた平野・育和両校児童は、一〇月下旬に同地を去った。二〇年の「富田林町事務報告」は、「前年ヨリ二十二ヶ寮ニ集団疎開セシ平野、育和両校ノ学童ハ十月二十三日母校ニ帰ル」と記している。