六月一五日の空襲

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昭和二〇年(一九四五)になると、B29少数機が毎日のように飛来し、しばしば爆弾や焼夷弾が大阪府域に投下された。一月と二月には約二〇回も府域への空襲があって少なからぬ被害が生じたが、三月初めまでの空襲は比較的小規模なものにとどまっていた。ところが、三月一三日の深夜から翌一四日未明にかけての大阪市への空襲は、それまで大阪に加えられたどの空襲とも異なるきわめて大規模なものであった。B29二七四機が来襲し、AN-M47A2炸裂型油脂(ナパーム)焼夷弾一五八六個と、M69尾部噴射油脂焼夷弾三五万七〇四八個もばらまいたのである。大阪市は、たちまち火の雨に包まれた。この爆撃で大阪市の中心部が約二一平方キロにわたって焼失し、約五〇万人が家を失い、一万三〇〇〇人以上の死傷者・行方不明者がでた。富田林市域の町村からも、大火災で大阪市上空が真っ赤に染まるのが望見された。

 四月と五月は、大阪では比較的平穏な日が続いたが、六月一日にB29とP51による第二次大空襲があり、同月七日に第三次、一五日に第四次と、大阪への大規模焼夷弾爆撃が繰り返された。これらの空襲のうち、六月七日までの空襲では、富田林市域の町村に直接被害が生ずることはなかったが、六月一五日の大空襲の時に、富田林町板持に焼夷弾が投下され被害が生じた。大阪府警察局の六月二二日付「空襲被害状況ニ関スル件」の「六月十五日大阪地方空襲被害状況調査表(昭和二十年六月二十日午前八時現在)」には、富田林警察署管内の被害として、半焼八戸、軽傷三人、罹災者三八人と記されている(小山仁示編『大阪空襲に関する警察局資料Ⅱ―小松警部補の書類綴より―』)。この一五日の大空襲は、B29四四四機による大阪・尼崎都市地域への昼間焼夷弾攻撃であった。来襲したB29の主力は和歌山県上空を北上し、大阪府南部を経て大阪市に殺到した。一部は紀淡海峡を経て大阪湾から侵入した。前掲「空襲被害状況ニ関スル件」は、「八時四〇分頃ヨリ一〇時五〇分ニ至ル間、大阪市全域(主トシテ東南部)ヲ攻撃シタ後、京都南部、奈良、三重県境ヨリ九時一〇分ヨリ一一時二〇分ニ至ル間、熊野灘ヲ経テ南方洋上ニ脱去セリ」と記している。富田林高等女学校の「教務日誌」の六月一五日には、「午前八時頃警戒警報、ツヾイテ空襲警報、生徒ヲ西山ニ避難セシム」「午前九時半頃板持ニ焼夷弾投下、火災生ズ、間モナク消火」とあり、富田林への投弾が大阪市域への激烈な爆撃のさなかだったことがわかる。大阪市爆撃のために、府域に侵入したB29のうち一機が、何らかの事情で搭載弾の一部を農村である富田林町板持に投下したものと思われる。

写真103 ボーイングB29 (朝日新聞企画第一部編『日本大空襲』から転載)

 投下された焼夷弾は、板持青年会館付近に集中して落下した。当時の警防団、女子警防報国団など村の人たち(道籏新一、塚田照子、塚田秀雄)の話によると、青年会館の東に位置する奥野住太郎の家がもっとも被害が大きく、そうとうの火災が生じた。その隣家の平田喜造の家は、本屋は無事だったものの納屋が全焼に近い被害を受けた。奥野龍蔵、市川政道、岡田亀治の家にも焼夷弾が落ちた。青年会館の南西に位置する岡田亀治の家では、藁葺(わらぶき)の本屋の屋根を突き抜けた焼夷弾が長持に当たって発火し、布団などが燃えた。当時彼方国民学校四年生だった岡田昌弘の話によると、警防団や近所の人が水をかけて消し止めたが、土足で大勢畳の上にのぼっていて、家の中がぐちゃぐちゃになっていたという。消火活動によって、被害が大きくなるという光景も見られた(平成五年一〇月一五日、平成六年八月一三日富田林市史編集室の聞き取り調査による)。

 板持に焼夷弾が投下された時、白煙が上がるのが周囲の村々から見えた。一五日に大阪市域を攻撃したB29が搭載していた焼夷弾の種類は、AN-M47A2一〇〇ポンド焼夷弾、E46五〇〇ポンド焼夷集束弾、M17A1五〇〇ポンド焼夷集束弾であった。AN-M47A2は炸裂型油脂(ナパーム)焼夷弾である。E46に集束されているのは六ポンド油脂焼夷弾AN-M69焼夷弾であり、M17に集束されているのは四ポンドAN-M50型マグネシウム焼夷弾である。M69は細長い六角筒で、中径八センチ、長さ五〇センチで、着地と同時に頭部横の信管が作動して薬室の炸薬が爆発し、筒の中のナパーム剤が尾部のふたを吹き飛ばして噴射し激しく燃える。M50は、中径四・八センチ、長さ三三センチの六角筒の小型弾で、長さ二二センチのアルミニウム翼を付けていた。

 板持に投下された焼夷弾は、田んぼにもたくさん落下し、柔らかい土に突き刺さって不発になっているものがあった。長さ五〇センチぐらいの六角筒で、太さは大人の男性が握っても指が回らず、かなり余るほどであった。六角筒の先に何か小さいものが付いていた。そこを当てるように石に投げ付けると爆発し、激しく噴射して燃えた。空襲の時玄関先に落ちて発火した焼夷弾は、水をかけると燃え広がり、庇(ひさし)が煤(すす)で黒くなったという。当時の村人の記憶からみて、板持に投下されたのは六ポンド油脂焼夷弾AN-M69と思われる。

 なお、第四次大阪大空襲における府域全体の被害は、「六月十五日大阪地方空襲被害状況調査表」によると、被害家屋五万三一一二戸、罹災者一八万一六三六人、死者四七五人、重軽傷者二三八五人、行方不明六七人であった。