六月一五日の第四次大阪大空襲をもって、五大都市(東京、名古屋、大阪、神戸、横浜)への大量焼夷弾攻撃は終わった。このあと、マリアナ基地のB29部隊は、中小都市に対する焦土作戦に着手し、六月一七日から八月一五日未明までに五七都市に五万三一二六トンの焼夷弾を投下し、一六八平方キロを焼き払った。七月一〇日未明の堺大空襲も、中小都市に対する焼夷弾攻撃の一環として行われた。この日、堺を襲った一一六機のB29爆撃機は、午前一時三三分から三時六分にかけて、焼夷弾七七八・九トンを投下した。B29搭乗員の報告では、この爆撃によって生じた堺の火災は、三二〇キロも遠くから見え、煙の柱が五二〇〇メートルに達していたという。堺市の南東約一三キロに位置する富田林町の人々も、夜空を染めるすさまじい火災を目の当たりにした。富田林は、堺市に近いだけに、第一次大阪大空襲よりも堺空襲の激しさを記憶にとどめている人が多い。
堺大空襲の前後から、硫黄島基地発進のP51戦闘機の来襲が激しくなり、さらに七月末には、土佐沖南方海面のアメリカ海軍機動部隊の航空母艦を発進したグラマンの複数機の来襲があって、府域に銃爆撃を加えるようになった。アメリカ海軍の太平洋第二空母任務部隊指揮官戦闘報告には、七月二八日に、米海軍第三八機動部隊と英国部隊が、四国沖九六マイルの地点から、名古屋と北九州の間の目標に対して絶え間無い波状攻撃を開始したと記している(石井勉編著『アメリカ海軍機動部隊』)。同日には富田林にも艦上機が来襲し、空襲警報が繰り返し発令された。富田林高等女学校の「教務日誌」には、「午前六時頃空襲警報発令、九時頃解除」「九時半頃警戒警報発令、十時頃解除」「午後一時空襲警報発令、敵機本校上空旋回、西山ヘ機銃掃射ヲナスモ本校被害ナシ」と記されている。富田林町に来襲した艦上機グラマンの複数機は、同時刻に近鉄富田林駅や富田林中学校付近・大字喜志など富田林のあちこちで機銃掃射を行った。小山仁示著『改訂大阪大空襲』には、この日午後一時ごろ近鉄富田林駅に降りた直後にグラマンの機銃掃射を受けた森谷カヨ子の体験画と、野菜畑の狭い水路に頭を突っ込んで必死に隠れた体験とが載せられている。この七月二八日の空襲について、大阪府警察局の八月一日付「空襲被害状況ニ関スル件」は、小型機来襲により、東住吉区と高槻市・泉大津市および三島郡・北河内郡・中河内郡・南河内郡・泉北郡・泉南郡の各町村に被害が生じたことを記している。南河内郡では、古市町・富田林町・長野町および黒山警察署管内の村々に小型爆弾投下と銃撃があり、古市町で軽傷三人・全壊二戸・半壊二戸、富田林町で軽傷一人の被害が生じた(前掲『大阪空襲に関する警察局資料Ⅱ』)。
ところで、敗戦までの日数がさほどなかった夏のある日、富田林町大字喜志の宮(現富田林市宮町)で、国民学校三年生の児童が、米軍戦闘機の機銃掃射を受けて、左脚部に貫通銃創の重傷を負った。この児童の名は吉岡謙、昭和一一年(一九三六)五月一五日生まれで、大阪市住吉国民学校初等科三年生であった。父親の吉岡正則が中国で戦死し、遺骨となって帰って来たのは一四年四月であった。二九歳だった。公葬の時、「忠魂の家」と書かれたのぼりが、住吉区住吉町の自宅の前に立てられ、正則の妻、母、祖母らが会葬者を迎えた。満二歳の謙は、この時母の手に抱かれていた。その謙が、二〇年四月に住吉国民学校の三年生となり、大阪市の学童集団疎開の追加疎開で岸和田市の阿弥陀寺へ行くことになった。豊かな自然の中で疎開生活を送っていた謙たちであったが、やがて暑くなり子供達が川で泳ぐようになったころ、謙の自宅のすぐ近くに家があった級友の一人が疎開先で伝染病にかかり死亡した。謙の記憶では、赤痢だったとのことである。このことがあって心配になった謙の家族は、集団疎開先の岸和田から彼を連れ戻し、縁故疎開させることにした。阿弥陀寺へ謙を迎えに行ったのは、そのころ傷病兵の衣服を着ていた父の弟であった。いったん住吉に帰った謙は、父のいとこで当時富田林町喜志に住んでいた吉岡伊之助の家に疎開することになった。祖母に連れられて阿部野橋から近鉄電車に乗った謙が、喜志駅に降りたころ、富田林町一帯が米軍戦闘機の空襲にさらされていた。足の遅い祖母は道路端の溝に隠れ、謙は伊之助の家をめざして田んぼの中の道を走った。謙が、宮にあった伊之助の家にたどり着いた時、飛来した三機の戦闘機のうち一機が降下して来て機銃掃射を浴びせた。迎えに出ていた伊之助らといっしょに、謙は急いで家の中に隠れた。その瞬間、壁を突き抜けた銃弾が、堅い家具に当たって跳ね返り、謙の左脚部を内側から外に抜けた。太股を縛って止血してもらった謙は、リヤカーで富田林の医院に運ばれて応急手当を受けた後、すぐに近鉄電車で阿倍野の大きな病院へ連れて行ってもらい治療を受けた。阿倍野の病院は、鳥潟病院だったと思うとのことである。鳥潟病院は、当時阿倍野筋一丁目にあった。同病院は、昭和四五年に住吉区苅田町に移転した。富田林の医院では、銃弾が抜けた左脚部の切断の話も出たようだが、幸いその後の治療で後遺障害も残ることなく治癒したが傷跡は残った。吉岡謙が機銃掃射で足を撃ち抜かれたのは、米軍艦上機が富田林市域を襲った七月二八日のことと思われる(平成六年八月一二日、富田林市史編集室の聞き取り調査による)。
なお、喜志の宮では、小型機が投下した爆弾で道路と田んぼに穴があいたことがあった。また、七月末ごろ、富田林中学校の西一四〇メートルのところにあった仲谷利平所有の田んぼに、飛行機の補助タンクが投下されたことがあった(富田林市史編集室の調査による)。いずれも、七月二八日の艦上機による市域への空襲の際のことと考えてよい。