昭和二〇年(一九四五)八月八日、富田林警察署管内の白木村(現河南町)宮戸で、米軍戦闘機の機銃掃射を受けて二人の男性が死亡した。富田林町別井の南東約四〇〇メートルの所でのことである。撃たれたのは、白木村北加納の祝金治(当時四九歳)と同村白木の幾谷重次郎(当時七一歳)であった。祝金治は配給米をリヤカーに積んで、白木村を南北に走る広い道路を北に向かって家に帰る途中であった。幾谷重次郎は、牛の餌を田んぼへ刈りに行っての帰りがけで、祝が歩いていた広い道路と交差している野道を北東に進んでいて、広い道路を斜めに横断した直後のことであった。祝金治の長男の妻満子が姑イノから何度か聞いた話によると、金治は足首を銃弾でちぎられていて、駆け付けた村人によって大字寺田の診療所に運ばれたが、出血多量で死亡した。金治は、大阪阿倍野で自転車部品の卸商をしていたが、戦争が激しくなってからイノの実家のある白木村に疎開していた。金治には、二〇歳の娘と一三歳と一〇歳の息子と、さらにその下にも娘があった。
幾谷重次郎は、胸を打ち抜かれて、野道に沿って流れる川の中に倒れた。長男の妻イトが、知らせを聞いて駆け付けた時、広い道路に倒れた祝金治が運ばれて行くところだった。重次郎は、すでに息がなかった。家に連れて帰って、イトが重次郎の胸に包帯を巻いた。銃弾は、胸から背中に抜けていた。重次郎は、日露戦争に出征して戦争の恐ろしさが骨身に染みていただけに、空襲警報が出るたびに人一倍恐がったという(平成五年一〇月一五日、一一月九日、富田林市史編集室の聞き取り調査による)。
新聞報道によると、八月八日午前中、P51約七〇機が紀伊半島西南部から侵入し、大阪、兵庫、奈良、香川各府県の航空施設、鉄道、船舶などを分散襲撃したという。大阪府消防課作戦室「空襲被害詳報」には、東住吉区(現在の平野区の地域)から堺、泉大津、岸和田、泉佐野、古市、八尾、富田林にかけて被害があり、死者一五人、重軽傷二四人、全焼二戸、半焼一戸と記録されている。
幾谷重次郎と祝金治が撃たれたのは、八日の午前一〇時ごろであった。米軍戦闘機三、四機が、白木村を北から南へ飛び抜けた。このうちの一機が、通行中の人影めがけて気まぐれに銃弾を浴びせた。重次郎と金治は、その犠牲となった。