白木村では、不発弾の爆発によって死亡した子供があった。富田林町別井のすぐ東に隣接する白木村大字今堂での出来事であった。昭和二〇年(一九四五)三月三一日の午前中、今堂の福田幸次郎(当時三八歳)宅にあった小型爆弾を、同家の玄関先を流れる小川に設けられた洗い場で、隣家の子供澤本恒夫が触っていて犠牲となった。この時、福田幸次郎の長男幸雄(当時一〇歳)と次男の進(当時九歳)もそばにいた。澤本恒夫は昭和七年二月二日生まれで満一三歳、白木国民学校高等科の生徒で、翌四月一日から二年生の新学期を迎えるはずであった。恒雄の叔父の澤本嘉一郎、いとこの澤本嘉弘、福田幸次郎の子供の福田幸雄、福田進の話によると、爆発した不発弾は、三月一三日深夜から一四日未明にかけての大阪大空襲のあと、福田幸次郎が白木村の警防団員として大阪市に出動した時に手に入れて来たとのことである。幸次郎は、死体片付けの仕事が辛いと、何度もこぼしていたという。持ち帰った不発弾は、幸次郎がみずから拾ったものか、あるいは誰かに貰ったものかわからないが、幸次郎には、その物体の危険性についての知識が全くなかったようである。
三月三一日の朝から、子供らが爆弾を持ち出して遊んでいた。それを小川の洗い場に持って行った年かさの恒夫が、弾頭に付けられたプロペラを回していると爆発した。プロペラを回すと、信管が切れて爆発する仕組みになっていたのである。長さ三〇センチぐらいで、ビール瓶ほどの大きさの爆弾であった。
知らせを聞いた叔父の澤本嘉一郎が、大ヶ塚から自転車で駆け付けた時、息はあったものの、爆弾の破片を全身に受けた恒夫の体は目も当てられない状態になっていた。顔は半分潰れ、腹は割れ、太股の骨も露出していた。嘉一郎は、今堂の村の人と義兄の三人で、恒夫を担架に乗せて富田林の医院に運んだが、途中で恒夫の息はなくなっていた。嘉一郎は、水を欲しがった恒夫に、死ぬ前に水を飲ませてあげればよかったと悔やんだ。恒夫は、体の大きい丈夫な子だったという。
そばにいた福田幸雄も、右足全体に大怪我をした。幸雄は、富田林の仲谷医院に運ばれ、しばらく入院して治療を受けた。福田進は、爆発と同時に地面に倒れたが怪我はなかった(平成六年八月一三日、富田林市史編集室の聞き取りによる)。
今堂で子供の命を奪った不発弾は、二〇年三月下旬以前に、米軍機が投下したものであった。防空総本部警防局指導課長名で、警視庁と大阪府の警務部長および各府県警察部長に宛てた二〇年一月三一日付の文書「最近ノ空襲ニ於ケル投下弾ニ関スル件」には、「二〇封度破片弾M四一型(環層爆弾)」として、次のように記されている(小山仁示編『太平洋戦争下の防空資料―小松警部補の書類綴から―』)。
二〇発(一説ニハ一六発又ハ二四発モアリ)程度ヲ一束トシテ五〇〇封度型トナシ投弾ス
構造ハ中径九糎(センチメートル)、全長約三〇糎、弾体長二二糎、弾尾ニ相当大ナル尾翼ヲ附シ弾頭ニハ「プロペラ」ヲ附ス
人馬殺傷用破片弾(環層爆弾)ニシテ一六条ノ螺線(らせん)状溝アリ
炸裂時細片トナツテ飛散シ殺傷破壊威力相当大ナリ
長崎県大村市、名古屋市ニ於テ昼間東京都ニ於テ夜間使用サレタリ
福田幸次郎が持ち帰った不発弾は、右のM41破片弾だったのではないかと思われる。M41は全長三〇センチの小型ではあったが、殺傷威力の大きい残虐な爆弾であった。白木村大字今堂の不発弾による子供の犠牲は、空襲下における痛ましい事件の一つであった。